
第8回 エクアドル(República del Ecuador)
中米の旅を終え、いよいよ南米大陸へ。パナマとコロンビアとは勿論、陸地でつながっているのですが、道路は敷設されておらず、そこに広がっているのはダリエン地峡という深いジャングル(以前は「人を寄せ付けない」と形容されていましたが、近年は南米からアメリカを目指す不法移民たちが年に数十万人単位でダリエン地峡を徒歩で越えるようになっています)。なので、僕は飛行機でパナマからエクアドルのグアヤキルへ飛びました。エクアドルも南米のご多聞に漏れず、為政者が反米、親米を繰り返している国。かつてマンタにあったアメリカ空軍基地から飛び立ったアメリカ軍機は、ベトナムであれだけ健康被害が起こっていたことが分かっていた上で、コロンビアのジャングル地帯に潜むゲリラ対策として枯葉剤をジャングルに撒き続けていました(マンタ空軍基地は2009年、コレア大統領率いる当時の反米政権によって閉鎖)。意外に思えますが、エクアドルは産油国。産油国のイメージが薄いのは、2008年の金融危機以降、経済的支援の主人公となった中国にその見返りとして、全産出量の9割を輸出しているからでしょう。



グアヤキルです。首都のキトよりもはるかにデカい大都市で、エクアドルで一番治安の悪い街とされています。僕がこの街を訪れる数カ月前に、新婚旅行でグアヤキルを訪れていた日本人夫婦が強盗に襲われ、旦那さんが射殺されるという事件が起こっていたので、とてもブルーな気分でした。右端はエクアドルの食事。エクアドルは独自通貨を発行しておらず、すべての決済は米ドル。ですが、物価は安くて3ドルも出せば定食を食べることができました(当時は1ドル=100円時代)。




グアヤキルから飛行機でガラパゴス諸島へ向かいました(所要時間は2時間弱)。諸島の中心となるのはサンタ・クルス島のプエルト・アヨラ。観光客が落とす金を目当てに本土から移住してきたエクアドル人で人口は既に1万人を超え、普通に街区が広がっていて(写真左)サンタ・クルス島での環境破壊は進むばかり。日々増え続けるゴミの処理も大問題になっていました。ガラパゴスと言えばゾウガメですが、観光客が目にするのはほとんどが養殖ガメ(人口飼育と呼ぶそう)。海岸沿いに行くと野良アシカ?がそこら中にいて(笑)、海イグアナもしかりです。観光は小型クルーズ船に乗船しての周辺の無人島巡りが中心となりますが、料金が高いので結構な出費を強いられます。まあ、何度も訪れる場所じゃないですから仕方ないですね。




エクアドルの首都キト。標高2千8百メートル、アンデス山脈の山中にあります。ここの旧市街はスペイン植民地時代の街並みが良く保存されていて大変趣がありました。残念ながらキトも治安は良くありませんが、基本的な安全対策を取っていれば大丈夫。過度に警戒する必要はないでしょう。右端はキト郊外にある赤道直下を示す記念碑。スペイン語で赤道はecuador。つまり、それがそのままこの国の国名になった訳です。




南部の古都クエンカへやって来ました。16世紀から続く古い街並みが残る落ち着いた雰囲気の街で、映画などでも良く目にするパナマ帽はパナマという名がついてはいるものの、ここクエンカが発祥の地。今でも街の特産品です(クエンカの街で被っている人を見かけることはなかったですが・笑)。郊外には、スペイン人の侵略以前に繁栄していたインカ帝国の北部の拠点であったとされているインガピルカの遺跡(写真右端)もあります。
第9回 コロンビア(República de Colombia)
コロンビアは1960年代から2016年まで、アメリカが支援するコロンビア政府と左翼勢力のコロンビア革命軍(FARC)との間で内戦が続いていた上、90年代からはその混乱に乗じた麻薬マフィアが勢力を伸ばして血みどろの抗争を繰り広げていた為、旅行者が近寄れるような国ではなかったでんすが、内戦が終結に向かい始めてからは急速にその状況が変わり、2006年にはコロンビアを訪れる旅行者の数が年百万人を超えています。僕がコロンビアを訪れた時は、まだFARCの残党がベネズエラ国境付近で活動中でしたが、既に過去の人たちといった感じで、治安のレベルは別として旅行自体は普通にできました。観光資源が豊富なコロンビアの観光業の将来は有望ですが、まだまだ治安面では不安があり、2016年に日本人バックパッカーがメデジンで強盗に射殺された事件は記憶に新しいです。


写真左はエクアドルとコロンビアの国境。ここにいる路上両替商は偽札を掴ませるので注意してください。残りの2枚はカリの街。カリは標高千メートルの高原に位置し、その過ごしやすい気候がスペイン人に合っていたのか、16世紀初頭には既に街の礎が築かれていた古都です。が、かつては麻薬マフィア「カリ・カルテル」の本拠地であり、そのことで街の名が世界に知れ渡ったのは残念な話。僕が訪れた時には、カリ・カルテルはもう壊滅させられていましたが、残党たちが麻薬ビジネスを続けていて治安は悪かったです。



メデジンです。この街もかつては麻薬王パブロ・エスコバルが率いる犯罪組織「メデジン・カルテル」の本拠地として悪名を馳せていました。1993年にエスコバルは治安部隊に射殺され、メデジン・カルテルも壊滅しましたが、エスコバルはメデジンの貧困層に結構金をばら撒いていた為、地元では英雄視している人も多いという印象。ここでも残党が麻薬ビジネスを続けていて、メデジンを発つ日、バスの車窓から街外れの幹線道路脇に首を切断されて腹の上に乗せられ、内蔵も引き出されている凄まじい遺体を目にしました。組織を裏切ったのか縄張り争いの成れの果てだったのかは分かりませんが、傍に立っている警官たちは遺体にシートをかけることもなく笑っていて「麻薬なんかに関わると最後はこうなるんだぞ」という見せしめにしているような感じがしないでもなかったです。コロンビアが抱える現実を目の当たりにした瞬間でした。



首都ボゴタ。標高2千6百メートルというかなりの高地に位置する人口1千万の超大都会です。ボゴタも1990年代は人口あたりの殺人発生率が高い街の世界トップ10の常連でしたが、治安対策の強化によって年々、殺人発生率は低下しているようです。確かに街の中心部にはそこそこの数の警官が配置されていました。どこの国でもそうですが、街の治安が悪くなる最大の原因は、その街にいる悪い奴の数の多い少ないではなく、実のところ、人口に対する警察官の絶対数が足りない、もしくは警察そのものが腐敗しているというのが原因なんですよね。




左3枚はカリブ海に面したカルタヘナです。ここは他のコロンビアの街と違ってのんびりとした空気が漂っていて、暫しくつろげました。住民もアフリカ系コロンビア人が多いという印象があり、とても陽気で親切な人たちだったです。右端の写真は、メデジン郊外にあるピエドラ・デル・ペニョールという奇岩。頂上まで階段で上って行けます(笑)。因みにこの奇岩、個人の所有物だそう。
第10回 ベネズエラ(República Bolivariana de Venezuela)
日本では英語読みを使ってベネズエラと表記されますが、スペイン語読みはべネスエラ。日本のプロ野球で活躍したマルカ―ノ(古すぎるか?笑)、ラミレス、ペタジーニ、カブレラといった選手たちは皆、ベネズエラ出身だったので、意外と馴染みのある国名ですね。そんなベネズエラで、近代史に自らの名を刻んだ一人の男がいます。その名はウーゴ・チャベス。1999年に大統領に就任するや、石油の国有化など強硬な反米路線を突き進みました。すると、毎度のワンパターンで、2002年、親米派の軍人がクーデターを起こし、一時チャベスは監禁されましたが、彼を慕う軍人仲間(かつてチャベスは陸軍の中佐でした)やクーデターを知って立ち上がった市民たちの反撃によってクーデターは粉砕され、チャベスは監禁先から助け出されています。勿論、クーデター派を陰で操っていたのはアメリカ政府。イランで石油の利権を維持したいが為に、石油の国有化を進めようとしたモサデク政権に対してやったことを繰り返した訳ですが、イランでは成功してもベネズエラでは大失敗に終わりました(笑)。2019年にもアメリカ(当時の大統領はあの御仁)は、病死したチャベスの後を継いだマドゥ―ロを打倒すべく、グアイドというどうでもいい人物を担ぎあげて同じことを繰り返しましたが、またもや失敗しています(懲りない奴らです・笑)。ベネズエラ人でチャベスを嫌う人は少なくないですが、そのほとんどは、チャベスの登場によって自らの利権や利益を失った人々。石油の利権を失ったアメリカと同じ側の人々です。ですが、チャベスは石油を国有化し、その利益を貧困層にばら撒きましたので(それが現在のベネズエラの経済的な混乱の原因のひとつでしょうけども)、貧困層のベネズエラ人の中ではチャベスが英雄視されているのは間違いありません。


写真左はコロンビアとベネズエラの国境。当時のベネズエラはアメリカの経済制裁や原油の禁輸措置等によって経済が大混乱に陥っており、外貨不足で闇両替のレートがとんでもない数字になっていました。それまでの僕の経験では、闇両替のレートが高かったのは共産主義時代のポーランドと湾岸戦争時のイラン。それでも、公定レートと闇レートの差は10倍程度でしたが、この頃のベネズエラは100倍を超えていたんです(笑)。30ドルを闇両替しただけでも写真中央のような札束の量となり、支払った現地通貨を闇両替で換算すると、夜行バスに一晩乗って1ドル、レストランでお腹いっぱい食べて2ドル、ホテル1泊3ドルといったぐあいにしかお金が減りません。多くのベネズエラ人が腹を空かしていた時代だったので、大変申し訳なく思いました。右端の写真はベネズエラで良く見かけた携行武器持ち込み禁止の看板(汗)。ベネズエラも国中に銃器が氾濫していて金銭目的の強盗や誘拐が多く、警察も腐敗しきっていたので治安は最悪でした。しかも、外国人は外貨を所持している確立が高いことを強盗たちは知っているのでコワかったです。



左はマラカイボで一番有名な通り「カラボボ」。この写真からは分かりませんが、マラカイボは油田と石油で発展した街なので、中心部には高層ビルが建ち並んでいます。中央の写真は、当時カラカスで一番有名であった建物 「ダビ・ビル(Torre de David)」。建設途中で放棄された高層ビルに低所得者層が勝手に住み始め、スラム化していました(僕が訪れた時には、そのほとんどが強制排除されていましたけども)。28階くらいまで人が住んでいたそうなんですが、勿論エレベーターが無い為、上り下りは階段だったらしいです(笑)。どういう内部構造になっているのかは分からなかったですけど、10階くらいまではバイクや車で行くことができたとも聞きました。ベネズエラの大抵の街には中華レストランがあり、右の写真はそこで食べた中華の一例。シェフは大抵、中国人なので味も良く、飲み物とセットで闇両替価格なら1ドル程度でした(汗)。



エンジェル・フォールのあるカナイマ国立公園へのゲートウェイとなるシウダー・ボリーバルの街。カラカスから夜行バスで街に着きましたが、途中3回も軍の検問があり、そのうち1回は荷物検査がありました。でも、恐れていた身体検査はされず、闇両替の金を没収されずに済んだのは良かったです。カナイマで会った白人旅行者の一人は身体検査でパンツ一丁にされた末、没収されたそう。右端の写真は街の北側を流れるオリノコ川。シウダー・ボリーバルは静かで手入れの行き届いた綺麗な街でした。




シウダー・ボリーバルから小型機でカナイマへ。カナイマは道路が通じていない陸の孤島。飛行機でしか行くことができません。往復の航空機運賃と現地での2泊3日の食時付きツアー込みで、料金は米ドル払いで90ドルでした。ちょっと信じられなかったですね(安すぎて・笑)。カナイマの簡素なロッジで1泊した後、船外機付きの細長い小型船でエンジェル・フォールへ向かいます。所要時間が5時間もかかり、船の硬い木の板の上にずっと座っていると、おしりが滅茶苦茶痛くなってきますので、皆、ライフジャケットを脱いでおしりの下に座布団代わりに敷くことになります。急流などでライフジャケットの着用が必要になると、船頭さんが「chaleco(ベスト)」と叫んでくれますので、その時だけは身に着けましょう。乾季に入って川の水深が浅くなると、船底が岩と接触するので船が出せず、エンジェル・フォールへ行けなくなることもありますので、もし、行ってみたいという方がおられたら、訪問時期には注意してくださいね。




エンジェル・フォールは川岸から離れた所にあるので、船の到着場所に写真左端のようなトタン屋根のベース・キャンプが設置されてます(ツアー会社によって場所は異なります)。夜はここでハンモックを吊るして1泊。トイレは水洗トイレがちゃんとありますしシャワーも浴びることが可能で、蚊などの不快な害虫もほとんどいませんでした。夜の食事は船の船頭さんが焚火の炎でロースト・チキンを焼いてくれ、とても美味しかったです。ベース・キャンプからエンジェル・フォールへは、ジャングルの中をトレッキングしながら約1時間。突然、視界が開けて滝が現れます。高さ約千メートルのギアナ高地の垂直の崖の頂上から流れ落ちる水はその高さ故に途中で水蒸気になってしまい、地上に落ちることはありません。「ほーぅ、これがエンジェル・フォールか!」という感じでした(笑)。因みにエンジェル・フォールのエンジェルは、この滝を発見した人の名前。右から2枚目の写真はサンタ・エレーナ・デ・ウアレインの街。ここまで来れば、ブラジルはもう目前です。
第11回 ブラジル(República Federativa do Brasil)
南米大陸の面積の約半分を占める広大な国土と2億人を超える人口。そして、南米で唯一、ポルトガル語を公用語としている国(旅行だけなら、スペイン語でもなんとか乗り切れます)。その経済規模は2位のアルゼンチンの3倍もあり、まさしく名実ともに南米でナンバーワンに位置する大国ですね。しかし、その半面、貧富の格差が激しく、大都市周辺部には必ずと言っていいほどにファべーラと呼ばれるスラム街が形成されていて、麻薬の取引を始めとした犯罪の温床になっています。銃器を使った強盗や誘拐事件も多発しており、治安は決して良くはないですが、大多数のブラジル人はとても親切で底抜けに陽気。日本人がラテン系の人々の性格として想像するものを一番持ち合わせているのがブラジル人でしょう。90日以内の滞在に関しては2023年、遂に査証の取得が不要となりましたし、基本的な安全対策を講じ、ファべーラなどの危険地帯には近付かないということを守っていれば、治安に関して極度に恐れを抱く必要はありませんので、多くの人にブラジル旅行を楽しんでいただきたいです。但し、ブラジルは国土が広く見所が各地に分散していますので、ぐるりと一周するとそれなりの日数が必要。


写真左はベネズエラとブラジルの国境。ここから乗合タクシーでボア・ビスタへ向かいます。声を掛け合って同乗者を集めないといけませんが、僕はブラジル人のグループに声をかけて入れてもらい出発。ところが、移動の途中で渋滞が始まり、車列が動かなくなりました。事故でも起こったのかと思いきや、先住民のヤノマミ族が抗議の道路封鎖をしているとのこと。金の不法採掘者が彼らの土地に勝手に入って森林を伐採するなどやりたい放題なのに、政府が何も手を打たないことに対する抗議でした。封鎖は3時間程で解かれ、再び車は動き始めましたが、皆、怒るどころか、バリケードの傍を通る際、道路を封鎖していた人々に手を振って連帯の意を示していました。1964年から21年間、ブラジルで続いた軍政への反動かどうかは分かりませんが(ここでも暗躍していたのは勿論アメリカ)、ブラジル人は皆、自国の政府のことなど全く信用してないですね(笑)。右端はボア・ビスタの街。アマゾンの奥地にある割には結構大きな街でしたが、観光するに値するようなものは何も無かったです。



ボア・ビスタから夜行バスに乗ってマナウスに到着。人口2百万人、アマゾン地域で最大の街です。アマゾン川の河口から千五百キロも上流というこんな辺鄙な地で街が発展したのは、かつてはゴムのプランテーションが盛んで莫大な富を生み出していたから。中央の立派な建物はその頃に建てられた劇場で、往時の勢いを思い知らされます。マナウスはアマゾン川と支流のネグロ川が合流する地点で、アマゾン川クルーズに乗船すると、川の色がきれいに二色に分かれているのを見ることができ、写真右はその様子。左側の黒い水がネグロ川の水です。マナウスはアマゾン川のかなり上流に位置するのにこの川幅ですよ!如何に大河であるのかが分かりますね。大型の貨物船でも十分にここまでやって来れます。



マナウス近辺では、アマゾン川クルーズの観光船が頻繁に行き交っています。中央の写真は一日クルーズツアーで立ち寄った少数民族の村(完全に観光客向けですが)。ここの村の人はコロンビアの内戦中にコロンビアから逃げてきた避難民だそうで、確かにスペイン語で話をしていました。右はアマゾンのジャングルでお約束の大蛇、アナコンダ(笑)。アナコンダは本来、水中に生息している爬虫類なんですよ。




マナウスはベネズエラ方面へは陸路でつながっていますが、それ以外の方面への道路は整備されていない為、飛行機で首都ブラジリアを経由してサン・ルイスへ向かいました。ブラジルの長距離バスは快適ですが料金が意外と高いので、航空機移動の方が安上りな場合もあります。写真左はブラジリア。計画都市で新しい建物しかなく、近代建築や都市設計にでも興味が無い限り見るべきものは皆無。それ以外の写真はサン・ルイス。ポルトガル植民地時代の街並みが残る静かないい街でした。



写真左はバヘリーニャスの街。ここの郊外にあるのが、雨季には大小の湖が砂丘の中に出現する幻想的な風景で有名なレンソイス(写真右)。レンソイスへは写真中央の4WDトラックの荷台を座席に改造した車で向かいますが、途中から道路は未舗装となり、恐ろしいくらいに車体が上下に揺れました(汗)。lençóisはポルトガル語でシーツの複数形。まさしく、シーツを折り重ねたような真っ白な砂丘が続いています。砂丘の中の小さな湖は雨季の限られた期間にしか出現しませんので、それを見たければ訪問時期には注意してください(大きい湖は一年中、水が枯れることなく砂丘内にあります)。



左から、フォルタレーザ、ヘシーフェ、オリンダです。写真からは分かりませんが、フォルタレーザとヘシーフェは新市街に高層ビルが建ち並ぶ超大都会。オリンダはカラフルなコロニアル建築が並ぶ静かで小さな街。ビーチもあって治安も悪くはなく、ゆっくりとくつろぐことができました。



サルバドールの街です。旧市街にはとても美しい街並みが続いていて、僕の中ではブラジルでお気に入りの街のひとつ。植民地時代、奴隷貿易の拠点であった為、住民はアフリカ系ブラジル人が多いです。ブラジルの格闘技として有名なカポエイラは、この地方の黒人奴隷たちがその礎を築きました。写真右端は崖の上のアルタ地区と崖下のコメルシオ地区を結ぶ有料の巨大エレベーター。



写真左はポルト・セグーロの歴史保存地区。ポルト・セグーロは1500年、ブラジルを発見したカブラルが最初に上陸した場所とされていて(諸説あります)、この地からポルトガルによるブラジルの植民地支配の歴史が始まりました。歴史保存地区はひと気の無い街の高台にあり、中南米ではそういった場所は大抵が強盗の出没エリアとなるんですが、ここは大丈夫でした(笑)。この街の海沿いには長いビーチが続いていて、リゾート地としても人気があります。右端の写真はブラジルで良く見かける「ポル・キロ」と呼ばれるレストラン。要はバイキング形式の食事なんですけども、食べ放題ではなく、好きな料理を好きなだけ皿に盛ってレジへ持って行き、そこで重さを計ってもらってその重さに応じた料金を支払うという、ブラジルでしか見かけたことのないシステムになってます。僕は小食なのでいつも安くで食事ができて重宝しました。ポル・キロはランチ時間が中心で、夜もやっている店は少なかったです。




ポルト・セグーロからバスで約21時間、 リオデジャネイロまで南下しました。現地の人が発音するのを聞いた限りでは、リオデジャネイロではなくヒウジジャネイロゥですね(笑)。左から2枚目の写真が有名なコパカバーナのビーチ。季節外れのせいか、ビキニ姿のおしりプリプリのお姉さんはいませんでした。残念(笑)。この街でもうひとつの有名スポット、コルコバードの丘の頂上へは登山電車に乗って向かいます。頂上へ向かう登山道もありますが、強盗が良く出没するのでやめておいた方が無難。ここのキリスト像を見る度にアニメのルパン三世を思い出してしまうのは僕だけでしょうかね?



サンパウロへやって来ました。人口1千万人、周辺部も含めると2千万人という超巨大都市です。経済的にはブラジルで一番重要な街ですが、観光で見るに値するスポットはほとんどありません。写真左は戦前より歴史が続く有名な日本人街、リベルタージ。最近は中国、韓国系の移民がその住人となりつつあるそう。因みにブラジルには約2百万人の日系人が暮らしていて、多くの方々がブラジル社会で大活躍されています。リベルタージを北上して行くとあるのが写真中央の大聖堂。この周辺は残念ながら治安があまり良くありません。




左からクリチバ、サントス、フォス・ド・イグアスの街。クリチバも日系人の方々が多く暮らす地で、金閣寺風の建物がある日本庭園なんかも街の中心部にあります。港町サントスで有名なのはボンデ(路面電車)。世界中からやってきた古いボンデが沢山走っていて、日本からのお下がり車輛も見かけました。フォス・ド・イグアスはイグアスの滝観光の拠点となる街。アルゼンチン、パラグアイと国境を接していて、彦摩呂さん風に言えば「まさしく、南米のゴールデン・トライアングルやぁ~」みたいな所です(笑)。




イグアスの滝です。左2枚はブラジル側から見た滝。右2枚は国境を超えてアルゼンチン側から見た滝です。ブラジル側は展望デッキが滝の下側にある為、水しぶきが凄く(虹がしょっちゅう発生・笑)、アルゼンチン側はその逆で、遊歩道を使って水が落ちる滝の真上まで行くことができるので半端ない水量の大迫力の滝の姿を至近距離で見られます。世界3大滝と呼ばれる北米のナイアガラ、南アフリカのビクトリアも訪れたことがありますけども、ここの滝が一番良かったですね。
続きは『旅の棚③』でお楽しみください。