
1984年の秋に18歳で日本を飛び出し、以降約5年間に渡って世界を放浪して回った河内レオン。その後の大学生時代にもサラリーマン時代にも「お金が貯まれば旅に出る」を続け、これまでに訪れた国は100ヶ国以上。このコーナーでは、そんな僕の旅の中で想い出に残っている街を百選し『百都物語』と題して1都市づつコラムにする予定でしたが、時間が無くてまったく書けていないので(汗)、当面はデジカメ時代になってから旅した国での想い出を写真日記風にしてUPすることにしました。僕が世界を放浪していた頃ってのはカメラのフィルムが高かったし、撮影できる枚数は1本で最大36枚。おまけに現像代もプリント代もかかるしで、経済的な理由からカメラは持ち歩いていませんでした。それに何よりも、写真など撮らなくても自分の頭の中の記憶に焼きつけておけば良いと当時の僕は考えていましたから、デジカメ時代より前の写真はほとんどありません。でも、そのおかげかどうかは分かりませんが、放浪していた頃の旅先の記憶は常に頭の中で鮮明に甦ってきますので、いずれ 『百都物語』で紹介していきたいと思っています。
それでは皆さん、『百都物語』が完成するまでの間(いつ書きあげることができるのか分かりませんが・汗)ビジュアル中心の世界旅行をしばしこのコーナーでお楽しみください。第一弾は、メキシコのメキシコシティから南米大陸最果ての街ウシュアイアまで陸路で向かった中南米の旅です。
Que tengan un buen viaje.
第1回 メキシコ(Estados Unidos Mexicanos)
あまり知られてはいませんが、メキシコの正式な国名はEstados Unidos Mexicanos。つまり「メキシコ合衆国」が正式名称なんです。日本では英語読みの「メキシコ」が用いられていますが、スペイン語読みでは「メヒコMéxico」となり、こちらが正しい国名の発音。近年は麻薬絡みのマフィアやギャングが縄張り争いの抗争を繰り広げ、凄惨な殺人事件がしばしば発生しているので「とても治安の悪い国」というイメージが定着してしまっていますが、基本的に観光客がマフィアやギャングの暴力沙汰に巻き込まれることは先ずありません。強盗や窃盗などに対する基本的な警戒さえ怠らなければ、旅人にとってメキシコはとても魅力あるデスティネーションですので、過度に恐れることなく旅の候補先に加えて頂きたいです。それに、一般のメキシコ人は皆とても陽気で気さく、親切な人も多いですよ!



メキシコの首都メキシコ・シティの中心部、歴史地区と呼ばれているエリアです。完全にスペイン風なのは、16世紀前半にアステカ王国の都テノチティトランを破壊したスペイン人が、その瓦礫の上に作った街並みだから。大聖堂(写真左)の前にはソカロという中南米で最大の巨大広場があります。このソカロから北へ向かって1キロほど歩くとテピート(Tepito)という地区がありますが、治安が良くないエリアなので、近付かないようにしてください。




メキシコ・シティを訪れたのなら外せないのが、バスで1時間の郊外にある古代アステカ文明のティオティワカン遺跡の観光。この遺跡は標高2千メートルに位置しているので、遺跡の上り下りを繰り返していると結構息切れしますが、ペルーやボリビアなどのさらに標高の高い国へ向かう人はここで鍛えておくとあとが楽です。それともうひとつ、市内のポランコ地区にあるメキシコ国立人類学博物館も見逃せません。ここの展示物を見ると、アステカ人の造形に対する美的感覚に度肝を抜かれます。これに対抗できるのは世界広しと言えども、日本の縄文土器と三星堆遺跡(中国)の青銅器しかありませんね。




メキシコ・シティからバスで約5時間。グアナファトの街へやって来ました。16世紀に銀の鉱床が発見されたことから発展した街で(銀鉱山自体は掘り尽くされて1920年代に閉山)、メキシコで一番美しい街とされているそうですが、ちょっと?です。恐らく、カラフルに塗られた建物が美しいとされているのでしょうけども、同じようなカラフルな街並みは中南米の各地にありますし、ペンキの塗り方や色も、最近はちょっとやり過ぎ感があるような気がするのは僕だけでしょうか?




グアナファトからバスで東へ約1時間走ったところにあるサン・ミゲル・デ・アジェンデです。この街もグアナファトと同様にメキシコで最も美しい街として常に名の上がる地ですが、個人的にはグアナファトよりもまだ落ち着きのあるこちらの方が好きですね。1926年以来、歴史地区の開発が政府によって制限された為、今でも植民地時代の面影を残す古い町並みが良く保存されています。



メキシコ南部にあるオアハカまで南下してきました。オアハカには名物がふたつあって、ひとつはモーレ・ネグロというチョコレートと言うか、カカオで作ったソース。その名のとおり色は真っ黒で甘くはなく、少し苦味があってチキンやポークと一緒に煮込んで食べます。そして、もうひとつはケソ・オアハカ。モッツァレラ・チーズが、日本で売っている割けるチーズみたいになっている風変わりなチーズですが、僕はとても気に入りました。



写真左はパレンケにあるマヤ文明の古代都市遺跡。1952年にこの遺跡で発見されたパカル王の翡翠のマスクはメキシコ・シティの国立人類学博物館に展示されています。写真右はサン・クリストバル・デ・ラス・カサスの街。日本人旅行者は大抵、略してサンクリと呼んでますね(笑)。ここからグアテマラへ向かうシャトルが出ているので、メキシコから陸路南下する旅人が必ずお世話になる街です。



写真左はチアパス州にあるサン・フアン・チャムラという地元住民が継承してきたマヤ文化を大切に守っていることで有名な村。ですが、現在は観光地化しています。地元の住民は羊の毛皮のような変わった服を身に着けていて、毎週日曜日に開催される青空市場が名物。写真右は、恐らくメキシコで一番有名であろう古代遺跡のチェチェンイッツァ。



有名ビーチリゾートのカンクンです。ここへやって来る客はやはりアメリカ人が多く、物価もリゾート地価格でお高いですけども、延々と続く白砂のビーチと紺碧のカリブ海は確かに美しいです(但し、時期によっては海藻だらけになるので注意してください)。ビーチ沿いには中、高級ホテルしかありませんが、ダウンタウンへ行けば安宿もあります。でも、カンクンを存分に楽しむなら、やはりビーチに面した高級ホテルに宿泊したいですね。バスで2時間ほど走った郊外では、マヤ文明のトゥルム遺跡(写真右)も見学できます(内陸部にあるチチェンイッツァ遺跡へは片道3時間以上かかります)。




メキシコの食事で誰もの頭に浮かぶのがタコスですよね。タコスは基本的に屋台料理。その具には様々なものがあって、それぞれの屋台に自慢の具があります。肉の具材は部位を選んで注文するので、スペイン語が分からないと結構ハードルが高いですがAl
pastorかSuaderoを頼めばハズレは無いです。Al pastorはドネルケバブみたいにして焼いた豚肉を削ぎ落したもので(写真右)、Suaderoは日本で言うところの牛バラの煮込み。これ以外の肉はモツ類が多いのでモツが苦手な人は要注意。しかし、タコスで重要なのは具よりもトルティーヤと呼ばれる皮。メキシコではトウモロコシ100%の皮を使うのが基本で大きさも小振りです。
第2回 グアテマラ(República de Guatemala)
グアテマラは1960年から1996年まで36年間も内戦が続いていた国で、内戦の原因を作ったのはアメリカ。この地域における自国の利益を失いたくないアメリカが、選挙で選ばれた反米的な政府をいつもの汚い手で転覆させて(親米の軍人を集めて支援し、クーデターなどを起こさせるのが常套手段)親米国家を樹立させたが為に(そんなふうに生まれた国家は常にアメリカの言いなりの独裁政権)それに反発する人々が武装闘争を始めた訳です。そんな内戦も終結からほぼ30年が経過し、今は人々が平和に暮らしていると言いたいところですが、残念ながらこの国も治安の良くない国として常に名が挙がる国です(汗)。



左から2枚はメキシコとグアテマラの国境。国境越えは非常に簡単。右端はなぜか外国人旅行者に「チキンバス」と呼ばれているローカルバス。チキンバスはしばしば車内に武装強盗が現れるので(今はどうか分かりませんが)利用はお薦めできません。現地の旅行会社などが運行しているシャトル(相乗りのミニバン)移動が一番安全。治安の悪い国では「リスクは可能な限り減らす。安全に金を惜しんではならない」は鉄則。勿論「自分はチキンバスを使って移動したし、危険なんて全然感じなかった」という旅行者もいるでしょうが、たまたま被害に遭わなかっただけと考えた方が良いです。金を奪われるくらいならまだしも、命を奪われてはお終いなのです。



古都アンティグアです。静かでのんびりとした雰囲気が漂うとても良い街でした。グアテマラ国内では治安の良い方の街だとされていて、実際、危険な雰囲気はまったく感じなかったです。人通りの少ない場所へは行かない、夜間の一人歩きはしないなどの基本的なルールさえ守っていれば、物価も安いし快適に過ごせます。



アンティグアから東へ50キロほど行った所にある風光明媚なアティトラン湖。湖の周辺には小さな村も沢山あって、小型船に乗ってそれらの村の幾つかを巡るツアーが頻繁に出ています。住民はもちろんスペイン語を話しますが、この辺りではマヤ系の現地語で話をしている声が結構聞こえてきて興味深かったです。治安面での問題は少なく外国人旅行者も安心して滞在できるのでお薦めのエリア(勿論、基本的な注意は必要)。



写真左はケッツァルテナンゴ。グアテマラ第二の街で、現地ではシェラ(Xela)の名で呼ばれる方が多いようです。メキシコから南下するなら、先ずはこの街を目指すと良いかと思います。中央はチチカステナンゴ。アティトラン湖の北、標高2千メートルの山中にある小さな町で、東南アジアの山岳民族の村へやって来たと勘違いしてしまいそうな雰囲気がありました。こちらも、現地の人はチチと略して呼んでいます。




グアテマラの首都、グアテマラ・シティ。街の中心部には近代的なビルが建ち並ぶ大都会です。治安も良くないですし、見どころも特に無いので、用がなければスキップしてとっとと別の街に移動する方がベター。グアテマラはコーヒーの名産地。街角にコーヒースタンドなどもありますので、見つけたら飲んでみてください。あと、竈で焼いたトルティーヤも美味しいです。
第3回 ホンジュラス(República de Honduras)
日本ではホンジュラスの名で知られる中米の小国。スペイン語での発音はオンドゥーラスです。1979年に隣国ニカラグアでサンディニスタ革命が起こって反米政権が樹立されると、アメリカは直ちにホンジュラスに軍を駐留させ、ニカラグア内のコントラと呼ばれる親米民兵組織の支援基地にしました。ここでもアメリカは小国を利用し尽くしただけで撤退し、何の責任も取らないまま放置。今ではホンジュラスは世界の中でも最貧国のひとつとなってしまいました。ギャング組織が乱立して殺人事件も日常茶飯事で、治安も世界の中では最悪のレベル。と言っても、一般市民はいたって普通の人々で、親切であり親日的です。



写真左はグアテマラとホンジュラスの国境。国境を越えて10キロも走らないうちに古代マヤ遺跡の最高傑作のひとつが街外れにあるコパン・ルイーナスの街に到着。治安の良くないホンジュラスですが、コパン・ルイ―ナスは別世界。のんびりとした平和な空気が流れていました。



中央の写真はサン・ペドロ・スーラの街の中心部。アメリカの資本が牛耳るバナナのプランテーションで発展した街だそうですが、今は凶悪なギャングたちの巣窟になってしまいました。僕がこの街を訪れた頃は、ここかベネズエラのカラカスが人口あたりの殺人発生率において常にトップを競っていたのを思い出します。ただ、ここもメキシコと同様、ギャング同士の殺し合いによって率が上がっていたという事情があるので、少し割り引いて考える必要はありますね(危険な街ということに変わりはないですが)。右端はこの街で見かけた銃砲店。ホンジュラス国民は誰でも拳銃やショットガンを自由に買い求めることができるそうで(汗)銃器が氾濫している国というのはほんとコワいし、常に緊張を強いられるので気が休まりません。
第4回 エルサルバドル(República de El Salvador)
日本ではエルサルバドルと表記されますが、実際のスペイン語での発音はエル・サルバドール。救世主という意味です。この国も1980年から92年まで内戦が続いていた国で、ここでもまた、その陰で暗躍して多くの人々を死に追いやっていたのは悪の帝国アメリカ合衆国でした。僕が訪れた頃はマーラ・サルバトルチャ(MS-13)などのギャングが一番勢力を誇っていた時代で治安も最悪でしたが、それらのギャング組織は内戦中にアメリカへ脱出した戦争孤児たちによってロサンゼルスで結成されたものでした。その多くがアメリカ政府によって90年代に母国へ強制送還され、エルサルバドル国内で勢力を拡大させたのです。



写真左はグアテマラとエルサルバドルの国境。エルサルバドルは日本の四国より少し大きいくらいの面積の小さな国。国境を越えれば2時間ほどで首都サンサルバドルに到着します。2014年当時のサンサルバドルは治安が悪く、金融機関だけではなく一般の商店やファーストフード店、宿などのエントランスにもショットガンを持った警備員が常に立っていましたし(僕はショットガンおじさんと呼んでいました・笑)、街中を走る配達の商用車の助手席にも大抵ショットガンおじさんが座っていて、中南米のどこの街を訪れても、このショットガンおじさんがいるかいないかでその街の治安の悪さのレベルを推し量ることができました。



とは言え、サンサルバドルの街中で入れ墨だらけのギャングを目にすることもなく、通りに漂っていたのはのんびりとした空気。僕が宿泊した安宿の従業員も夜の8時くらいまでなら出歩いても問題はないと言うので、中米ではお馴染みの「Pizza
Hut」へ行って夕食(勿論、入口ではショットガンおじさんが睨みをきかせてます・汗)。注文時に名前を訊かれ「ピザを注文するのに名前が要るの?」と尋ねたら「注文が用意出来たらあなたの名前を呼ぶから」と笑われました。番号札を渡すのではなく、客の名前を呼ぶシステムだったんですね(笑)。
第5回 ニカラグア(República de Nicaragua)
ニカラグアという国は、1936年にクーデターで権力を手にして以来、アメリカの経済的利益の保護者となったソモサ一族によって国家が私物化されていた地で(例えば1972年、首都マナグアは大地震によって壊滅しましたが、地震後に国際社会がニカラグアに送った義援金や支援物資をソモサ一族はすべて着服し、身内に分配していました)、その支配と横暴に対して我慢の限界に達した民衆たちが1979年に武装蜂起し、ソモサ政権を打倒しました(サンディニスタ革命と飛ばれています)。ところろが、自国の権益を失うことが嫌なアメリカはいつもと同じく悪辣な手段を用い、ニカラグア国内の旧ソモサ派の軍人などに金をばら撒いてコントラという反革命軍を組織させただけでなく武器の支援も開始。その所為でサンディニスタ政権とコントラの間で長らく内戦が続き、1987年にようやく終わりました。なぜに80年代後半のこの頃から突如として中米の紛争が次々に終結していったのかというと、それは1986年にイラン・コントラ事件が世に暴露されたから。この事件はアメリカ政府が宿敵イランに武器を密売し、そこから上がった利益(資金洗浄をしていたのは後に911テロを起こすビンラディンの兄)をコントラ支援に密かに注ぎ込んでいたという大スキャンダルで(しかも、レーガン大統領が承認していた)、これが世にばれたことでアメリカは中米での悪事を続けることができなくなり、アメリカの後ろ盾を失った勢力は次々に自滅しました。それが、中米各地で続いていた内戦がこの時期に相次いで終了した理由なのです。



写真左端はエルサルバドルと二カラグアの国境。他の2枚はレオンの街です。僕の名前もそうなんですが、レオンはスペイン語でライオンの意味。スペイン本国にも同じ名前の街がありますが、実はライオンは全然関係がなくて、古代ローマ時代にそこに滞在していたローマ第7軍団の「軍団」がラテン語でレヒオ(legio)であったことから、それが訛ってレオンになったと言われています。この街の通りの家の壁はカラフルにペイントされていて、中南米ではスラムの治安を向上させる為にそうしている所が多いですが、レオンのものはそうではなく治安は悪くなかったです。



左端は首都マナグアのTICA BUSのターミナル内に併設されていたホテル。マナグアには夜遅い時間に到着したのでここに泊まりました。と言うのも、当時のマナグアは非常に治安が悪く、旅行者を狙う拳銃強盗が多発していたから。ギャング同士が殺し合っていても、旅行者はほとんどその影響を受けませんけども、この金銭目当ての強盗というのは非常に厄介であるのと同時に一番コワいです。ここのホテルも出入口はひとつで、勿論ショットガンおじさんがガードしており、建物の外側には窓が一切無くて要塞みたいな宿でした(笑)。右端はニカラグア湖。日本の琵琶湖の10倍以上の大きさで、淡水湖なのに狂暴な大型の鮫が生息しています。




グラナダの街です。こちらもスペイン本土に同じ名前の街がありますね。マナグアから約40キロとそれほど離れてはいませんが、例えマナグアから悪い奴らが遠征してきたとしても、常に住民がよそ者に目を光らせているという感じがあって快適に過ごせました。右端の写真はグラナダで見つけたプール付きの安宿。マナグアの要塞ホテルとは雲泥の差でしたよ(笑)。
第6回 コスタリカ(República de Costa Rica)
隣国ニカラグアでサンディニスタ革命が起こった後、アメリカがコントラを使って介入を始めると、コスタリカもエルサルバドル同様、その前線基地にされてしまいましたが、1986年に誕生したアリアス政権はアメリカに「NO」を突き付け、コントラ支援の前線基地を撤去しました。そんなことをすると、いつものパターンであれば、アメリカが汚い手を使ってアリアス潰しを行うことは間違いなかったのですが、そうならなかったのはイラン・コントラ事件が露見して、そんな悪だくみがもはやできない状態にアメリカが陥っていたからです(笑)。おかげでアリアスは暗殺されることもなく、ノーベル平和賞も受賞しましたね。



左端の写真はニカラグアとコスタリカの国境。残りの2枚は首都のサン・ホセ。中米の都市の中では一番垢抜けている印象を受けました。治安も当時は中米では一番良い方とされていて、サン・ホセで道を尋ねようと若い女性に声をかけたら、僕のことを悪い奴と思ったのか走って逃げられてしまいましたね(治安の悪い地域をずっと旅行してきたので、僕の顔も悪い奴の顔になっていたのでしょう・笑)。中央の写真ではためいているのはコスタリカの国旗。タイ王国の国旗とデザインが瓜二つですが、色の順番が違います。因みにコスタリカ(Costa
Rica)のスペイン語での発音コスタ・リーカ。富豊かな海岸という意味。



カルタゴの街です。19世紀初頭までコスタリカの首都でした。近くにはイラスという活火山があって度々、この街は大地震で被害を受けています。サン・ホセに首都が移されたのもそれが故。右端の写真はコスタリカの武装警察。コスタリカは軍隊を持たぬ国として知られていますが、戦車や戦闘機を持っていないだけで、この装備は警察と言うよりも軍隊ですね。隣国のニカラグアが、コスタリカの武装警察は事実上の軍隊だと主張するのも一理ありそう。コスタリカの観光の売りは大自然であり、エコ・ツーリズムが盛んなんだそうですが、自然の観察よりも街で道行く人々を観察している方が面白いと思う僕にとっては興味ゼロでした。それに物価がそこそこ高いのも貧乏旅行者には辛かったです。
第7回 パナマ(República de Panamá)
パナマの名が世界中に知られているのは、恐らくそこにパナマ運河があるからでしょう。そんなパナマ、運河に沿う幅16キロの地帯を永遠にアメリカの主権下に置くという信じ難い条項を独立時にアメリカによって憲法に盛り込まされた為、建国時からアメリカの属国同然であり、その歴史はアメリカの利益のおこぼれを授かる親米派とパナマ運河を取り戻そうとする反米派とのせめぎ合いの繰り返しでした。1968年にクーデターで政権の座についた対米強行派のトリホス将軍がアメリカ政府との交渉の末に運河地帯の主権をようやく取り戻したのは1979年のこと。トリホス将軍がラッキーだったのは、交渉の相手が穏健派のカーター大統領であったことでした。これがレーガンやブッシュ、トランプの時代であったのならトリホス将軍は絶対に葬り去られていたに違いありません。実際、トリホス将軍の死後、権力を握ったノリエガ将軍は、かつてブッシュがCIA長官であった時代、彼から金をもらって犬の役目を果たしていましたが、権力を握って暴走し始めるとアメリカの言うことをきかなくなり、飼い犬にケツを噛まれたブッシュは国際法を無視して(いつものことですが)突如パナマに軍事侵攻し、ノリエガを権力の座から引きずり下ろしました。ほんと笑えます。三流芸人のコントです。因みに、日本語でパナマと発音する場合はパにアクセントを置きますが、スペイン語での国名はマにアクセントを置くので、実際の発音は「パナマー」になりますね。



写真左はコスタリカとパナマの国境。メキシコシティを発って以来、陸路で南下を続けること1ケ月半、ようやくパナマに到着。イミグレの列に並んでいると係員のような女性がやって来て、切手大の変なシールを1ドルで買わせようとするので、拒否したらイミグレの別室に連れて行かれ「払わないと入国拒否するぞ」と告げられました。1ドルなのでまあいいかと払いましたが、支払いが必要なら窓口で払わせるだろうし、レシートも無いしで、どう考えても怪しかったです。僕は今でもイミグレの職員ぐるみの小遣い稼ぎだという疑いを持っていますね。在日本パナマ大使館の方、ほんとのところを教えてください。1ドルの恨みはデカいんです(笑)。首都パナマシティの新市街の中心部は、高層ビルが建ち並ぶ大都会。写真右端はパナマ運河に架かるアメリカス大橋。



パナマシティの旧市街。パナマはスペイン植民地時代、南米で産出される金銀を本国へ輸送する為の中継拠点であったので、植民地時代の建物が多く残っています。ただ、僕が訪れた当時は写真中央のように放棄されたままの建物が多くて、そこに低所得者層が不法に住みついてスラム化しており、治安も良くありませんでした。右端の写真は
パナマシティの新市街で食べた刺身定食。通りで日本食レストランを見つけた瞬間、日本食に飢えていた僕は迷うことなく中へ突撃。店内にいたのは店員も板さんも全員が外国人だったので(パナマ人かどうかは分かりません)期待はしませんでしたが、まともな刺身定食が出てきたので感動しました。
続きは『旅の棚②』でお楽しみください。