旅の棚③

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第12回 パラグアイ(República del Paraguay/Paraguái Tavakuairetã)

この国を知っている人がどれだけいるのだろうかと思えるような日本人には馴染みの無い国、パラグアイ。しかも、天然資源や観光資源に恵まれていないばかりか産業も発展しておらず、南米におけるその経済規模は毎年のように最下位。貧富の差も激しく、国民の約半分が貧困層に属すると言われています。住民の大部分はグアラニーと呼ばれる先住民族の血を引く人々で、白人は人口の2%以下。パラグアイではスペイン語と並んでグアラニー語も公用語となっており、国民の8割がグアラニー語を話すそうです。日本とのつながりは意外に深く、約1万人の日系人が暮らしている他、日本国が毎年のように最大の経済援助国となっている為、長らく親日的な国であるとされてきました。が、2023年、24年と在住日本人が相次いで現地で殺害されており、旅行中は最低限の警戒は怠らないようにした方が良いでしょう。


写真左はブラジルとパラグアイの国境、パラナ川。川の中央が国境線になっていて、フォス・ド・イグアスから橋を渡った向こう側にパラグアイのシウダー・デル・エステの街があります。パラグアイの方が物価が安く、しかもシウダー・デル・エステは免税都市なので、多くのブラジル人が電化製品などを求めて買出しにやって来ますが、治安の悪い街としても有名。昼間、商店が開いている間は人で賑わっていますが、夕方前に店が閉まるとゴーストタウンと化します。


シウダー・デル・エステからバスでアスンシオンへ。シウダー・デル・エステのバス・ターミナル内にあった両替所のブラジル・レアルとパラグアイ・グアラニーの換算レートはとても良かったです。アスンシオンでは日系人が経営する「ホテル内山田」に宿泊しました(写真右端)。久し振りに湯舟に湯を張って熱い風呂に浸かり、テレビで日本語の衛星放送を観てくつろげたので大満足。夕食は併設のレストランで思い切ってすき焼きを食べてみましたが、肉を牛脂で焼かずにバターで焼いたり(笑)味もイマイチで、砂糖と醤油を追加で借りて自分で味付けしました。因みにアスンシオンには目ぼしい観光スポットは何もありません。

第13回 ペルー(República del Perú/Piruw Republika/Piruw Suyu)

ペルーと聞いて僕らの世代の日本人が先ず思い出すのは、1996年にリマで起こった極左ゲリラ「トゥパク・アマル革命運動」による日本大使公邸占拠事件(多数の日本人を含む6百人ものパーティー参加者を人質にして立てこもりました)と、それを解決した日系の大統領、アルベルト・フジモリの名前でしょう。フジモリ大統領はペルーの改革を推し進めるにあたって強権を発動し独裁的な手法も用いましたが、失業率6割以上、年率8千パーセントのインフレ、センデロ・ルミノーソ(ペルー共産党)など極左ゲリラによるテロの多発(日本人の農業指導技術者も3名殺害されています)といった当時のペルーが置かれていた国難と呼びうる厳しい現実の前では致し方なかったという面もあります。その後、彼はその手法が違法であったとして逮捕、投獄されますが、極左テロを抑え込み、ペルー経済を立て直した功績はもっと評価されるべきでしょう。ペルーは観光資源が豊富で、2024年現在、訪れる外国人旅行者数が年間4百万人を超えるようになっていますが、フジモリがペルーの改革を始めた1992年頃、ビジネス客も含めたその数は年間20万人程度でした。その頃のペルーは観光旅行などできるような状況にない国だった訳で、平和というのは本当にありがたいものだとつくづく思います。


写真左はエクアドルとペルーの国境。当時、この辺りは強盗が多くてとても治安が悪かったです。国境からバスで約9時間、ペルー第3の街トルヒージョに到着(写真中央)。トルヒージョの街中はアルマス広場くらいしか見所が無いですけど、街の郊外に12世紀頃からインカ帝国に征服されるまでの期間に栄えていたチムー王国の遺跡が多数あります。基本、日干し煉瓦を積み上げるか泥を塗り固めただけですが、この地域は砂漠気候で雨がほとんど降らないので保存状態は良好。


人口1千万人を超える巨大都市、首都のリマです。海沿いに位置している為、実はビーチもある街(サーフィンもできます)。僕が訪れた当時の旧市街は治安が悪いとされていましたが、安宿の多い旧市街で宿を探しました。アルマス広場の近くで見つけた宿は館内が美術館みたいでとても良かったです (写真右端)。しかも1泊6米ドルほどでした。夜もアルマス広場は多くの人で賑わっていて、警官も多数配置されていたし危険な空気は感じなかったですね(勿論、基本的な安全対策と警戒は必要です)。


リマからナスカまで南下しました。ナスカでは小型機に乗って地上絵を見学するのが定番観光。人数が多いと10人以上を乗せることができる中型機利用になる場合もあります。また、天気が悪い時は地上絵が見えないので飛びません。上空から見た地上絵の感想は「うーん…」って感じですかね(笑)。右はペルーの名物料理であるクイ(cuy)、食用のモルモットです(汗)。料理法はまるごと素揚げにするか炭火焼き。お味の方はと言いますと、スパイスで臭みは消してはあるものの、こちらも「うーん…」って感じ(笑)。とは言え、ペルー料理は全体的には何を食べても美味しく、日本人の口にも合います。


リマからバスに揺られて丸一日、いよいよクスコへやって来ました。南米観光のハイライトのひとつであるマチュピチュ遺跡観光の拠点となる街で、標高3千4百メートルという高地に位置する静かなインカ帝国の古都ですが、僕が訪れた頃は首絞め強盗が良く出没していて治安は良くなかったです。標高が3千メートルを超えてくると、高山病で苦しむ旅行者が増えてきますけども、僕は低酸素でも生きられる体質なのか3千なんて平地と一緒。5千メートルを超えても全然平気で、煙草もパカパカ吸ってワインもグビグビとやってました(笑)。とは言え、高山病は重症化すると命にかかわる可能性もありますので、他の皆さんは十分に注意してくださいね。


クスコ周辺にはマチュピチュ以外にもたくさんのインカ帝国の遺跡があって、左端はクスコ郊外のオリャタイタンボ遺跡。ここにある鉄道駅から鉄道に乗ってマチュピチュ遺跡の麓、アグア・カリエンテス村へ向かいます。その名のとおり温泉が湧いていて、クスコではなくこの村に泊まるのも一考の価値あり。実はここの村、日本人移民の野内与吉という方によって礎が築かれた村で、初代村長も彼でした。それと、ここの鉄道路線は雨季になるとしばしば線路が流されて運行中止となるので注意が必要。右端はペルーで人気のインカ・コーラ。味は甘ったるいオ〇ナミンCって感じです(笑)。


マチュピチュ遺跡です。こんな辺鄙な場所になぜ遺跡があるのかは未だに解明されていませんが、都市ではなく王の別荘、離宮の類であったのではないかと推測されています。遺跡内ではリャマがうろうろしていますけども、これは野生ではなく観光客向けに連れてこられたもの。リャマはラクダの一種で、ラクダ類は敵を威嚇する際、相手に唾を吐きかけます。それはリャマも同じで、その唾は滅茶苦茶クサいので近寄る時は注意してください(笑)。


クスコからバスに乗り、アレキパ経由でプーノへ向かいました。アレキパに1泊したかったんですが、数日前に降ったという豪雨の影響でまだ街のそこら中が水浸しだったので(写真左端)、アレキパをスキップしてそのままプーノへ。プーノはチチカカ湖観光の拠点となる街で、ここまで来ると人々の服装もボリビア風に変わってきます。


プーノでは、クルーズ船に乗船してチチカカ湖の沖に浮かぶトトラ(葦)で出来た浮島を訪れるのがお約束の観光。島では一応住民が生活していますが、完全に観光客向け。島の子供たちはプーノの街で暮らして学校に通っているそう。また近年、プーノ周辺のチチカカ湖は水質汚染が激しく、浮島で暮らして水に囲まれているというのに、わざわざ船で1時間ほど離れた場所へきれいな水を汲みに行っているとも話していました。因みにこの観光で使われている船、見てくれは良いのですが、費用節約の為かエンジンは船舶用ではなく車のエンジンを流用しているみたいで、トルクが無くてスピードが全く出ません。あまりにもとろくて、滅茶苦茶イライラします。

第14回 ボリビア(Estado Plurinacional de Bolivia

ボリビア、その国名は南米独立の立役者であるシモン・ボリーバル将軍を称えて付けられたもので、国民の8割以上がケチュア族やアイマラ族などの先住民系の人々。そんな彼らの文化が色濃く残る素敵な国がボリビアです。しかしその半面、この国も他の中南米諸国と同様貧富の差が激しく国民の多くが貧困層に属していて、パラグアイと共に常に南米最貧国の名を課せられる国でもあります。御多分に洩れず、ボリビアも反米、親米を繰り返しており、チェ・ゲバラはボリビアで戦死しましたが、彼の討伐を行ったボリビア軍に資金援助し、協力していたのはアメリカ。2005年に先住民族として初の大統領となったエボ・モラレスは反米を掲げ、天然ガスなどを国有化しましたが、2019年、大統領選挙の開票不正疑惑をかけられた彼はメキシコへ亡命し、大統領の座を追われました。恐らくその陰で糸を引いていたのはアメリカでしょう。アメリカの悪行はより巧妙化している為、今のところ証拠はありませんが、いつか真実が明らかになる日が来ると信じています。一般的にボリビア人は寡黙で一見とっつきにくいですけども、貧しくとも他者への思いやりを忘れない親切で心優しい人々。多くの人にボリビアを訪れてもらい、その魅力を知っていただきたいと願っています。


写真左はペルーとボリビアの国境。エクアドルとペルーとの国境とは違い、のんびりとしたムードが漂っていました。左から2、3枚目はコパカバーナの街。チチカカ湖はペルーだけでなくボリビア側にもまたがっていて、コパカバーナからは、インカ帝国発祥伝説の地である「太陽の島」へ船で行くことができます(写真右端)。勿論、ブラジルのコパカバーナと違ってボリビアのコパカバーナの湖畔にビキニ姿のおしりプリプリ女性はいません(笑)。


標高3千6百メートルに位置するラパスです(正式名称はNuestra Señora de La Paz・笑)。ラパスの街はすり鉢状になっていて、その高低差は7百メートル。西洋の街では大抵の場合、街を見下ろす景色の良い高台は金持ちの住むエリアですが、ラパスは面白くてその逆。エル・アルトと呼ばれる空気が薄い高台には貧困者層が暮らし、富裕者層が生活する地区は空気が濃いすり鉢の一番底の部分にあります。河内レオンの小説『奇蹟のサングレ』にはラパスが舞台のひとつとして登場しますので、興味のある方は本ホームページ内の「小説の棚」を覗いてみてください。因みに、僕がラパスを訪れた頃はまだ街にロープウェイはありませんでした。ロープウェイの開業で、あの激しかった市内の車の渋滞が少しは解消していると良いですが。


ボリビア第二の街、サンタ・クルスです(正式名称はSanta Cruz de la Sierra)。1950年頃までは高原地帯の中の小さな街でしたが、1970年代に周辺で石油や天然ガスが発見されたことで大発展を遂げました。ラパスと違って標高も低く(約400メートル。なので高山病の心配もありません)周囲にはいくらでも土地があって発展の伸びしろがまだまだある為、現在ではボリビアで一番景気の良い街となっていて、地元の人々は自分たちのことをグアラニー語でカンバ(陽気な友人)と呼んで誇りにしています。ですがその半面、街の歴史が新しいので観光で見るべきものはほとんど何もありません。郊外には、まだサンタ・クルスが単なる小さな田舎町であった1950年代に移住された日本人のコロニーがあります(大変なご苦労をされたそうです)。


ラパスよりさらに標高が上がって、なんと4千メートル超えのポトシに到着。かつて銀の産出で栄えた街ですが、銀は既に掘り尽くされていて、僕が訪れた頃は個人の鉱夫たちが細々と錫を採掘していました。銀山(セロ・リコ・写真中央)の坑道跡へはツアーで訪れることができ、ガイドによっては余興でダイナマイトを使った爆破を再現してくれます(通りの雑貨屋でダイナマイトが普通に売られてるんです・笑)。真偽のほどは分かりませんが、銀山でしばしば行方不明者が出ていたのは、良い鉱脈に当たることを願って坑内で人身供養にされてしまっていたからだという話も耳にしました(汗)。


ポトシから夜行バスでウユニへ。かつては地球の果てという感じのウユニでしたけども、今では飛行場も出来て誰でも訪れることのできる普通の観光地となりました。傾斜のまったくないウユニ塩原は雨期に水が浅く張って鏡のようになることから有名になりましたが、乾期は水が消えて単なる真っ白の平原になりますので、訪問時期には注意してください。また、水が張っていても風が強いと右端の写真のように波が立ち、なかなか鏡のような湖面にはなりません。僕はウユニから4WDに乗り、2泊3日かけてチリのサンペドロ・デ・アタカマへ向かいました。標高の高いアンデス山脈越えで、食事、宿代込みの料金は驚きの100米ドルでした(2014年当時の料金)。


大抵の日本人旅行者はウユニ塩湖の上でジャンプして写真を撮るだけで帰ってしまいますが、もったいないですよね(そのような写真を撮りたいだけなのなら、別にウユニへ行かなくても世界中に同じような場所がたくさんあります)。なぜもったいないかと言うと、このエリアのハイライトはチリとの国境までの間に次々と現れる絶景だからです。写真右端は一見平地のように見えますが、周囲に植物が一切見当たらないことからも分かるように標高5千メートルを超えている場所。4WDに同乗していたドイツ人とフランス人たち5名は全員ダウンして無口になってしまい、元気に走り回っていたのは僕とドライバーだけでしたね(笑)。

第15回 チリ(República de Chile)

日本では英語読み風のチリの名で呼ばれていますが、正しい国名はスペイン語でチレ。南北6千キロの細長い国土になったのは、南北に延びる険しいアンデス山脈が東側に鎮座しているが故に、自ずと南へ南へとしか領土を拡大することができなかったからです。建国以来、隣国であり大国であるアルゼンチンの背中を追いかけてきたチリ。未だその経済規模はアルゼンチンの3分の1ですが(一人あたりのGDPであれば、既にアルゼンチンを抜き去りました)、経済の混乱が続くアルゼンチンを横目に安定した成長が続いており、ピノチェト将軍による軍事独裁政権が続いた1973年から88年までの間の国民から笑顔が消えていた暗い時代を乗り越えた今のチリ人には、アルゼンチンはもはやライバルでもないという自信がみなぎっているように僕には見えました。


4WDの同乗者は全員がウユニへ戻るので、僕だけ国境の少し手前にある露天風呂から別の車に乗り換えて国境へ向かいました(ドライバーがガソリンを節約したかった為)。写真中央はボリビアとチリの国境。でも、ここにチリのイミグレーションは無く、50キロ離れたサンペドロ・デ・アタカマの街外れにあります。国境からの車輛は必ず立ち寄ることになっていますので、チリの入国スタンプのもらい忘れ等の心配はありません。


アタカマの街には特に見るべきものが無いですが、郊外にアタカマ砂漠があり、ここは月か火星かと思えるような荒涼とした景色が広がっています。実は世界で一番乾燥している地は北アフリカのサハラ砂漠や中東のアラビア砂漠とかではなく、このアタカマ砂漠。年間降水量はなんと10ミリ以下で、アタカマの街では水は大変な貴重品。そのせいか、街で一番の安宿であっても料金が非常に高くて安宿とは呼べなかったです(笑)。ボリビアからチリへやって来ると、モノの値段がなんでもバカ高に感じてしまうのは仕方のないことなんですけども、貧乏旅行者にとってはやはり辛いですね(涙)。この街、チリで最古の街とよく紹介されますが、あくまでもスペイン人が現在のチリの領土内において一番最初にたどり着いた地という意味でです。


左からラ・セレーナ、ビーニャ・デル・マル、バルパライソです。ラ・セレーナは太平洋に面していてチリ国内では首都サンティアゴに次いで古い歴史を持つ街。街の外れには長いビーチが続いていて、太平洋を挟んで遥か1万7千キロ先に日本列島があります。1960年、チリ沖で起こった地震は大津波を発生させ、22時間後に日本に到達して死者100名以上を出す大災害となりました。ラ・セレーナ自体も歴史上、何度も津波に襲われています。ビーニャ・デル・マルは首都サンチアゴ市民の保養地。バルパライソは古くからの港町で、港に面する迫り出した崖にカラフルな街並みが広がっています。見かけは可愛らしいですけど、崖の上は低所得者層が暮らすエリアで治安が良くないとされているので注意。名物のアセンソール(ケーブルカー)に乗って展望台へ行く程度なら問題はありませんが、最低限の用心はしてください。


チリの首都であり事実上の最古の街であるサンティアゴです(正式名称はSantiago de Chile)。人口5百万人の大都市ですが、チリやアルゼンチンでは強盗にいきなり拳銃で撃たれるというようなことはまず無いので、かなり気が楽(笑)。 左端はモネーダ宮殿(大統領官邸)。1973年、ピノチェト将軍が率いる軍部のクーデターによって追い詰められた当時の大統領で社会主義者のアジェンデは、宮殿が戦車に包囲され、空軍機の爆撃を受けても尚、降伏を拒否し、最後は宮殿内で自決しました。このクーデターの裏で暗躍していたのは勿論アメリカ。いつもながらの汚いワンパターンの手口が笑えますね。政権を奪取したピノチェトは軍事独裁政権を打ち立てて左翼活動家を弾圧し、少なくとも3千人を虐殺したと言われています。


写真左と中央はプンタ・アレーナス。プンタ・アレーナスは元々は流刑地でしたが、パナマ運河が開通するまではマゼラン海峡が大西洋と太平洋を結ぶ主要航路であった為、その中継地点(補給基地)として発展しました。クロアチアからの移民が多かったのもこの街の特徴のひとつ。メキシコシティから直線距離で約9千キロ。ここまで南下してくれば、南米最南端の街ウシュアイアまであともう一息です。写真右はパイネ国立公園への入口となるプエルト・ナターレス。


プンタ・アレーナスからバスでアルゼンチンのウシュアイアへ。途中、小型のフェリー船にバスごと乗り込んでマゼラン海峡を渡ります。天気が良ければ対岸を見渡せる狭い海峡の向こう側にあるのはのフエゴ島。南米大陸南端の最大の島です。チリは物価が結構高いので食費は節約に務めました。エンパナーダ(ミートパイ)だけで済ませるなんてこともしばしばでしたね(涙)。

第16回 ウルグアイ(República Oriental del Uruguay)

ウルグアイという国名、恐らくサッカーのファンである人以外の日本人にはあまり馴染みがないものでしょうが「世界一貧しい大統領」と呼ばれたホセ・ムヒカがいた国だと言えば、ピンとくる方もおられるかもですね(ピンときませんか?笑)。ムヒカは元左翼ゲリラの闘士だった人物で、生涯で身体に受けた銃弾は6発、70年代の軍事政権下では13年間に渡って刑務所に収監され、出所後に政治団体を結成して大統領選に立候補し当選、2010年から15年までウルグアイの大統領を務めました。ムヒカが世界一貧しい大統領と呼ばれたのは、大統領としての報酬をほとんど寄付して月千ドルほどで生活をしていたからで、資産も友人から譲り受けた87年型のフォルクスワーゲンとトラクター、少しの農地しか持っていませんでした。ムヒカは貧しい大統領と呼ばれることに対して後にこう答えています。「貧しい人とは、モノを少ししか持っていない人のことではなく、無限の欲望があっていくら持っても持っても満足しない人のことだ」と。


ブエノスアイレスから高速船に乗船してラプラタ川を渡り、対岸にあるコロニア・デル・サクラメントへ向かいました。川と言っても河口付近なので川幅は50キロもあり(当然、対岸は見えません)、高速船であっても移動に1時間以上かかります。コロニアの見所は植民地時代の歴史的な街並み。なんですが、ただそれだけですね。他には何もありません(笑)。右端はコロニアで最古の通りのひとつであるCalle de los suspiros(溜息通り)。かつては売春宿が並んでいた通りと紹介されることが多いですけど、植民地時代のコロニアにはこの通りだけでなく街の至る所に売春宿があり、悪の巣窟みたいな場所だったようですよ(笑)。


首都のモンテビデオです。人口百万人超の都会ですが、とてものんびりとした空気が流れています。ウルグアイは物価が高く貧乏旅行者には辛い国。感覚的には中南米で一番高いと思いました。経済はパナマやコスタリカと同程度の規模で、賃金水準が高い訳でもありませんし、確かに税金が高く、輸入品が多いということが物価高の一因ではあるのでしょうが、あんな物価高の中でどうやってウルグアイ人が暮らしていけているのか不思議でしょうがないです。まあ、税金が高い分、ウルグアイ国民は医療や教育を無料で受けることができ、電気、ガスや公共の交通機関の料金も抑えられているそう。税金やバカ高い社会保険費を巻き上げられるだけで何の恩恵もなく、電気代やガス代も値上げされ放題の糞みたいな日本国よりはまともに暮らせる国なのかも知れません。

第17回 アルゼンチン(República Argentina

アルゼンチンという日本での国名。そのまま言っても外国人に通じない国名の代表格のひとつ。マドンナが映画「エビータ」で「Don’t cry for me, Argentina」と歌っていたように英語での発音はアージェンティーナ。スペイン語では同じ綴りでアルヘンティーナと読みます。日本では英語のArgentinaの形容詞であるArgentineを明治時代に国名と思って誤用したのでアルゼンチンと呼ぶようになったみたいです(実はアルゼンチンの正式国名はRepública Argentinaで、この国名がdeを使って接続されていないことからも分かるとおり、ここのArgentinaは形容詞として使われてるのですけどね)。アルゼンチンはスペインの植民地でしたが、19世紀以降に大量に移民してきたイタリア系の住民がマジョリティーを形成しており、長らく白人国家であることを誇りにしてきました(それが故にヨーロッパとの関係を重視し、他の中南米の国々を蔑視)。ですが、アルゼンチン人の容姿をよく観察すると、かなりの人々が先住民の血も引き継いでいることが窺えます。国民性としては、家族、親友以外は信用しない傾向があり、その行き過ぎた個人主義はアルゼンチン人が中南米で嫌われる原因のひとつ。アルゼンチンに親切な人がいないと言われるのは恐らくそのせいでしょう(実際には親切な人もたくさんいます・笑)。それと、政府の経済政策の失敗で何度も財政破綻を繰り返し、その度に激しいインフレに苦しんできた国民は自国通貨のペソをまったく信用しておらず、その結果、アルゼンチンでは外貨の両替に公定レートと闇レートが存在するので(僕が訪れた頃は1対1.5程度 )、物価はチリ並みかそれよりやや高い感じであるものの、闇両替をしたお金で支払えばかなり割安感がありました。あとひとつ、付け加えておかなければならないのは、この国にも1976年から83年まで軍政が続いたという暗い歴史があったということで、その間、軍政は左翼主義者やペロン元大統領(エビータの夫)を崇拝するペロニスタに激しい弾圧を加え、少なくとも1万人(一説では3万人以上)の人々が行方不明になっています。チリやブラジルがそうであったのと同様、軍政を陰で支えていたのは勿論アメリカ。軍政は拘束した人々を飛行機に乗せてジャングルの上に突き落とし始末するという蛮行を繰り返していたことが後になって判明しています。


チリのサンティアゴからアルゼンチンのメンドーサへ国際バスで向かいました。写真左はチリとアルゼンチンの国境、 クリスト・レデンドール。このルートもアンデス山脈超えですけども、ルート上の標高の最高地点は3千2百メートルくらい。楽勝ですね(笑)。メンドーサ(写真中央)は1861年の大地震で大部分の建物が倒壊し、その後に再建された街なので特に見るべきものはありませんが、南米最高峰アコンカグア観光の拠点となります。原産地のフランスではほぼ消えてしまったマルベック種を使って醸造されるワインの産地としても有名。


左の写真2枚はアルゼンチン第2の都市、コルドバ。旧市街の街並みは完全にヨーロッパ。コルドバの郊外には革命家チェ・ゲバラにゆかりのあるロサリオとアルタ・グラシアの街があります。ロサリオ(左から3枚目)はゲバラが生まれた街ですが、彼は4歳の時、喘息治療の為に一家と共にアルタ・グラシアに引越していますので、ゲバラに関連するものは特に何もありません。アルタ・グラシアにはゲバラ一家が暮らしていた家が残っており(写真右端)今は博物館になっていて、ゲバラが医大生時代に南米旅行をした際に使ったバイクなどが展示されています。


遂にやって来ましたブエノス・アイレス!と言っても、3度目の訪問でしたが(笑)。人口は1千万人を超え、長らくの間、中南米で最高水準の文化、経済を維持してきた大都会(現在、経済は既にブラジルのサンパウロに抜かれました)。歴史ある街の為、観光資源も豊富で、数週間滞在しても飽きることはありません。都心から車で1時間も走ればそこにはもう牧草地帯が広がっており、アシエンダと呼ばれる牧場を訪れることもできます。治安は中米の諸都市に比べれば平和なものですが(基本的な用心、警戒は勿論必要)、長距離バスターミナルのあるレティ―ロ地区はスラム街(Villa31)と隣接しているので注意してください。


墓地が観光名所というのもちょっと違和感ありですが、ブエノスアイレス市内の高級住宅街の中にあるレコヒータ墓地は観光客も良く訪れる場所。大抵の観光客のお目当てはエビータこと、エバ・ペロンのお墓(写真左から2枚目)。ここにある墓はどれも墓と言うよりかは豪華な霊廟になっていて、ちょっとびっくりです。写真右半分は同じく観光スポットのボカ地区。タンゴ発祥の地とされており、路上で踊りのパフォーマンスをしている人たちを見かけたりもします(僕が訪れた頃は、ディエゴ・マラドーナのそっくりさんが、うろうろしていました・笑)。ボカ地区は、あまり治安の良くない地区のひとつとされていますので、最低限の注意、警戒は怠らないようにしてください。


ブエノスアイレスのエンターテイメントとして誰もが思い浮かべるタンゴはタンゲリーアと呼ばれる店で見ることができます(ほとんどの店が観光客専門店と化していますが)。写真左から2枚目のタンゲリーアは「BAR SUR」。ウォン・カーウァイの映画「ブエノスアイレス」に出てくる店。因みに、ブエノスアイレスにもバリオ・チーノ(チャイナタウン)はあり、台湾系の中国人移民が多く住んでいます。あと、アルゼンチンで有名なものとして牛肉のパリージャ(網焼き・3枚目の写真)がありますけども、僕のお薦めは絶対にコルデーロのアサ―ド(羊の炭火焼)。パタゴニアでしか見かけないものの最高に美味しいです。中近東や北アフリカなどのイスラム圏で美味しい羊肉を何度も食べましたが、パタゴニアの羊肉には敵いません。


写真左からバイア・ブランカ、プエルト・マドリン、バルデス半島です。バイア・ブランカは何もない街でした。どうしてそんな街に立ち寄ったのかというと、子供の頃に見ていたアニメ「母を訪ねて三千里」に出てきていたから。先に紹介したコルドバやロサリオも実はそうなんですよね(笑)。プエルト・マドリンはバルデス半島観光の拠点となる街。バルデス半島はオタリアやペンギンの生息地で、海岸にいるオタリアをシャチが砂浜に乗り上げるようにして襲って狩りをすることでも有名です。


南部パタゴニア地方に位置するエル・カラファテです。アルゼンチンというよりはどこか北米の田舎のような感じの小さな街で、ぺリト・モレ―ノ氷河観光の拠点。氷河では、氷河の上をトレッキングするツアーに参加したり、小型クルーズ船に乗って氷河のすぐ傍まで近付くことができます。氷河の高さは50メートル以上。ここの氷河は1日に2メートルも動く新陳代謝の良い氷河なので(笑)小さな崩落は毎日、大崩落も数年に一度起こっています(2025年現在、地球温暖化の影響により、氷河の融解がかなり進んでいるとのこと)。


当時は世界最南端の街であったウシュアイアについに到着(現在はチリのプエルト・ウィリアムズが最南端の街だそう)。特に何があるという訳でもないのに、こんな南米大陸の南端で7万人もの人々が暮らしていること自体が驚きで、自然環境も厳しく常に強い風が吹き荒んでいました。パタゴニア地方には地平線の見える何もない大地がひたすら続いていて、その大部分が羊の放牧地。なぜ牛ではないのかと言うと、パタゴニアに自生するコイロンと呼ばれる栄養価の高い草が羊の好物だから。パタゴニアでは、なぜだか雲がすごく近くに見えるのが不思議だったです。 このあと、ブエノスアイレスに戻り、数泊して帰国の途につきましたが、空港へ向かう際、ものすごい豪雨に見舞われました。あんなに激しく降る雨は東南アジアで体験したスコール以外では見たことがなかったです。きっと、中南米が僕との別れを惜しんで泣いてくれたのだと信じています(笑)。

中南米編はこれにて終了。引き続き『旅の棚④』をお楽しみください。