旅の棚⑤

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【注意】2026年現在、イエメン全土に日本国外務省の危険情報レベル4(退避してください。渡航は止めてください)が未だ発出されておりますので、イエメンを観光で訪れることはできない状況です。

今回お届けするのは、2007年12月に8日間の日程で嫁さんと旅したイエメンです。「イエメン?えっ、それってどこにある国?」とおっしゃる方もいるかもですので、簡単に説明しておきますと、イエメンはその大部分が砂漠に覆われた広大なアラビア半島の南西端に位置する小さな国で、オマーン、サウジアラビアの2ヶ国と国境を接しています(小さいと言っても、日本の1.5倍の面積がありますけども)。南部はアデン湾、西部は紅海に面しており、海の向こうはもうアフリカ大陸。アフリカのジブチとは紅海を挟んで僅か30キロしか離れていません。イエメンの歴史はとても古く、首都サナアは紀元前7世紀に街の礎が築かれたとされていますし、旧約聖書に出てくるヘブライ王国のソロモン王に黄金や香料、宝石を贈ったというシバの女王の本拠地はイエメン西部のマーリブ辺りにあったのではないかと考えられています。その後、16世紀までは次々と支配者が変わる時代が続きますが、この地域の他の国々と同様、オスマン帝国(現在のトルコ)の支配を受けるようになると、政情も安定して海のシルクロードの中継地として香辛料等の交易で栄えました。


【写真は左からマーリブ(遺跡)、モカ、アデン。モカはオスマン帝国時代、特産品のコーヒーの積出港として繁栄しましたが(コーヒーの品種名になっている「モカ」はその名残)、現在は土砂の堆積で港としての機能を失い、巨万の富を築いたコーヒー商人たちの商館もそのほとんどが廃墟と化しています。アデンはイギリスの支配下で発展した港湾都市なので、旧市街を除けば実用一辺倒の街並みが続いていて、イエメンでは珍しくちょっと味気ない雰囲気】

しかし、そのオスマン帝国も時代の流れと共に衰退。その機に乗じたシーア派のザイド派が1918年に北部地域をイエメン王国(北イエメン)として独立させますが、その一方で南部はイギリスの保護国(南イエメン)にされてしまい、事実上の植民地になってしまいました。以降、その状態が半世紀近く続くも、1960年代に入ると、北イエメンでは軍部のクーデターによって王制が廃止されてイエメン・アラブ共和国が成立。南イエメンもイギリスの国力低下により保護国という立場から脱してイエメン人民共和国として独立しました(人民の名が冠されているとおりイスラム教を信仰する地域としては珍しく、樹立されたのはソ連寄りの共産主義政権)。その時代は米ソが激しく対立する冷戦の時代であった為、南北イエメンの間でもイデオロギーによる対立が続きましたが、共産主義圏の崩壊という時代の流れと共に1990年、南北の統一が遂に実現。しかし、イエメン共和国としてひとつの国家となったのは束の間、1994年には事実上、併合された形になった南部の不満が爆発して内戦が勃発。この内戦は北部が南部を制圧したことで直ぐに収束しましたが、2015年に入ると主要部族の利害対立を背景に再び全土が内戦に突入。イランの支援を受けたシーア派組織フーシ派(イランがフーシを支援している理由は宗教的理由ではなく、宿敵サウジアラビアに対抗する為)が首都サヌアを制圧したものの、サウジアラビアの支援(2021年まではアメリカも支援に加担)によってアデンを拠点に態勢を立て直した旧政権勢力やアラブ首長国連邦(UAE)が支援する勢力(UAEは2019年まで地上軍も派遣)がイエメン各地で入り乱れて未だ戦闘を継続しており、今も尚、内戦は収まっていません。なので、2026年現在も残念ながら観光客が訪れることはできない状況が続いています。


と、ここまでの説明を読んで「なんだかややこしそうな国だなぁ」と思った方もおられるでしょうけども、なぜに、そんなややこしそうな国を訪れたのかと言うと、それは、イエメンのシバームにある「砂漠の摩天楼」を何としても見ておきたかったから。僕たちがイエメンを訪れた2008年頃は、外国人旅行者に対する襲撃が時折発生していたものの、イエメンの情勢は比較的落ち着いていた時期で「今を逃せば二度と行けない」という思いから訪問に至りました。嫁さんとは、外国人旅行者が多数殺害されたテロ直後のエジプトのルクソールやインティファーダの真っ只中であったイスラエルなども訪れていて(いずれも僕たちの旅行計画が先に出来上がっていて事件があとから起こるパターンだったんです・汗)、その都度、適切な安全対策を取ってきましたが、イエメン訪問時も地元の有力部族の親族で旅行会社を経営している子弟をガイドとして雇い、滞在中ずっと同行してもらいました(イエメンは部族社会であり、何か問題が起こった際には、有力部族の親族というだけで顔が利くからです)。嫁さんをそんな所へ連れていくなという意見もあろうかと思いますが、本当に危険である地域を嫁さんと旅することはありません。僕は旅の安全に関しては慎重派ですので(笑)

サナア


首都サナアが位置するのは意外にも標高2,200メートルという高地。なので、夏季は涼しく過ごせますが、冬季は零下になることは稀なものの、朝晩の冷え込みが厳しい日が続きます(雨があまり降らず、空気は乾燥しているという完全な砂漠気候)。伝説ではノアの息子セムによって街が造られたとされていて、人が暮らし続けている街としては世界でも最古のひとつに数えられていますが、現在の旧市街の独特な街並みは16世紀以降のオスマン帝国の支配時代にできたもの。上記写真のようなイエメン式の伝統建築が軒を連ねていて、その姿は童話に出てくる「お菓子の家」みたいです(笑)。土地の有効活用と街への侵入者に対する防御の点から高層で造られている建物群は「カマリア」と呼ばれる漆喰で固定された美しい窓がその外観に華を添えており、このような街並みは世界広しと言えどイエメンでしかお目にかかれません。とても情緒があって素晴らしいの一言に尽きますが、ひとつだけ恐ろしいのは、これらの建物には一切鉄筋が入っていないという事実。煉瓦を単に積み上げてあるだけなんです(まあ、中世の時代に鉄筋なんてものは無かったですから、当然のことではありますけども)。イエメンは地震国ではありませんが、まったく地震が発生しない地域という訳ではありませんし、サナアの旧市街にある建築物は、恐らく日本の震度6程度の地震でそのほとんどが全壊してしまうのではないかという気がしました(汗)。


かつてのサナア旧市街は城壁によってぐるりと囲まれ、4つの門が設けられていましたが、時代の流れと共に不要となった城壁の大部分が取り壊されてしまい、門もイエメン門(写真左)ひとつが残るのみになっています(門は上に上がることが可能で、周囲を俯瞰できます)。門を抜けると広場があり、その奥にはアラビア名物のスーク(市場)が広がっているので、早速訪れてみました。


イエメン門の傍らにあるスークの名は「スーク・アル・メルハ」。メルハがアラビア語で「塩」の意味であるとおり、元々は紅海で採れた塩を売買する市場だったそうですが、今は主にスパイスや乾物(豆など)、日用品を売る市場になっていて、かつては金と同じ価値があったというイエメン特産の乳香も売っていました(写真左)。 乳香はアラビア半島に自生するボスベリアという樹木の樹液を固めたもので、熱を加えると、なんとも言えぬ爽やかというか甘い香りがします。乳香という名から、ミルクのような香りがするのかと勘違いしがちですが、この樹脂の見た目がミルク色であることがその名の由来。噛んでみろと言うので口に欠片を入れてみると、まさしく樹脂でした(笑)。


スーク周辺の路地も買物客でいっぱいです。イエメンでは買物は男性の仕事ですので、売り手も客も男性ばかり。観光客の外国人や子供を除いて、女性の姿を目にすることは先ずありません。イスラム教圏の商売人たちはどこの国でも皆、概してフレンドリーですが、イエメンの男たちはそれに超が付くス―パー・フレンドリーな人々(笑)。因みにイエメン男性はほとんどの人が喜んで記念写真に収まってくれますが、女性には絶対にカメラのレンズを向けてはなりません(まあ、外でイエメン女性を見かけることは稀ですが)。遠くからなら大丈夫だろうという油断も禁物。彼女たちは視力が良いだけでなく気も強いので石を投げてきます(経験談より・汗)。


市場にイエメン人の男性たちが続々とやって来るのには実は別の理由もあって、それは「カート」を買う為。スーク周辺のあちこちの露店で売られています(写真左)。カートは二シキギという熱帯の高地で育つ樹木の一種で、その若葉にはカチノンという植物性アルカロイドが含まれており、葉を噛んで成分を体内に摂取すると高揚感や多幸感が得られることで知られています。まあ、言わば一種の麻薬ですね(イエメン国内では合法ですが、日本も含め多くの国では麻薬と同じ扱いで非合法)。イエメン人の男性にとってカートはなくてはならない嗜好品になっていて、朝から少しずつ葉を噛んでは口の頬に溜め込み、数時間後には頬の中の葉がゴルフボール大にまで大きくなります(写真中央のドーナッツ売りの兄ちゃんがその典型的な姿。多幸感が増しているのかなんだか幸せそうですね・笑)。なぜそんなことをするかと言うと、注射や蒸気の吸引によって一瞬で摂取できるヘロインなどとは違い、カートに含まれる自然成分のカチノンを口や食道を通じて体内に取り込むには、長時間、しかも大量に噛み続けなければならないから。そして、高揚感が増してくる午後、イエメンの男たちは何をするのかと言うと、友人の家のサロンなどに集まってひたすらお喋り(勿論、男だけで)。3時間、4時間と世間話に花を咲かせます。今ではそれがイエメンの文化の一部ともなっており、カートを噛む習慣がイエメンから無くならない根本的な理由と言えるかもしれません。まあ、平和的で良いのですが、カートを噛んでいる人が平気で車の運転なんかをしている姿を見るとちょっとコワいです。


イエメン人男性の話が出てきたので、その話も少ししておきましょう。自分たちがノアの曾孫にあたるカハターンの子孫であると信じているイエメン人は多くて、その血筋がアラブの正統であるとされていることを非常に誇りに思っており、旧北イエメン地域に住むイエメン人はその末裔であるハーシェド部族連合、バキール部族連合(最大人口)、マドハジ部族連合の三つのどれかに属していることになっています(その下にはさらに枝分かれした肢族があって、細かく分類すれば北イエメンには約600もの部族があるそう)。イエメンを訪れてまず最初に気付くのが、道行く男性たちの多くがJの字型の短剣を腰(腹の前)に差して誇らしげに歩いていること。この短剣は「ジャンビーヤ」と呼ばれる両刃のナイフで、イエメンでジャンビーアを身に着けることは一人前の部族の男であることの証。ジャンビーヤ自体は、名前は違えどアラビア半島各地にありますが、一般市民が短剣を腰に差して街中を闊歩しているのはイエメンくらいです。日本では銃刀法違反でポリ公に一発で呼び止められること間違いなしですが(笑)、イエメン人がジャンビーヤを身に着けているのは護身用とかの為ではなく、あくまでも部族民としての誇りから。言わば、装飾品のようなものですね。その証拠に現在のイエメン人が腰に差しているものには刃が付いていませんし、その多くはスークで売っている安価な剣です(写真左端はスークの中のジャンビーヤを売る店)。剣の柄にサイの角を使っているものが最高級で、先祖から代々伝わるような歴史のある剣や宝石で装飾されたものは数千万円の値が付くものもあると聞きました。このジャンビーヤと共にイエメンで驚かされるのが、自動小銃がどこにでもあるということ。車のシートの下やトランクなどから普通に出てきますし、一般家庭を訪れても部屋の壁にでーんと立てかけられていたりします。聞くところによると、人口あたりの自動小銃の普及率はイエメンが世界一だそうで、一家に1丁というレベルではなく、一家に5丁、10丁ということも珍しくないそう。ですが、アメリカ等と違って無差別銃撃事件などは皆無ですし、銃を使った犯罪というのも聞いたことがなく、やはり、そこにもイエメンの部族社会とその誇りが関係しているような気がしました。つまり、彼らは自らと自らの家族を守る為だけに銃を持っているのであって、犯罪を犯す為にではないということです(因みに、右から2枚目の写真に写るハンサムな青年は僕たちのイエメン滞在中、ずっとアテンドしてくれたガイドのアデル君)。


イエメンで見かけた動物たちです。まだ、観光地化していない国だったので、ラクダは観光客を背に乗せる動物ではなく、本来の役割である使役をする動物として飼われていました(写真左は粉を挽くラクダ)。中央の写真は市場に連れてこられた子羊たち。愛らしいですが、このあと人々の胃袋に収まってしまいますね(汗)。当時、子羊は1頭50米ドル程度だったと記憶しています。右の写真はヤギ。イエメンではヤギを飼っている農家が多く、羊やヤギの放牧をする役を担っているのはなぜか女性のようでした。


イエメンでの食事はアラブ料理のオンパレード。イスラム教の国なので、肉料理は羊肉(ヤギの場合も多々あり)か鶏肉が中心。僕は羊肉が大好きなので平気ですが、苦手だという方はちょっとしんどいかもです。因みに、毎日羊肉を食べ続けていると、僕の経験では2週間くらいで自分の小便や汗が羊の油の匂い混じりになってきます(汗)。写真左は石鍋で肉(牛肉の場合もあり)と野菜、トマトなどを一気に強火で煮込む「サルタ」というスパイシーなシチューでイエメンの国民食。ホブス(薄焼きのパン)を浸して食べます。ケバブ(羊肉の串焼き)もどこで食べても美味いですね。イエメンでは食事の際、基本的にスプーンやフォークを使うことはなく、すべての料理を手(右手)で食べます。イスラム教圏やインド文化圏では、左手はおしりを拭く手ということになっているので使ってはダメですよ(僕は右手でおしりを拭くんですが・笑)。


サナアの旧市街の通りで結婚式に出くわしました。通りでお披露目するのは新郎だけで、新婦は建物の中で女性だけで集まってお披露目されます。少し前までは、祝砲代わりに自動小銃を空に向かって撃ちまくっていたらしいですが、怪我人や時には死者まで出るので(空に向かって銃弾を放てばその銃弾は引力の法則によって必ず地上に落ちてきますね・笑)、今はサナア市内では禁止されているそう。実はイエメン、世界最貧国のひとつに数えられる国なのですけど、そんなことは微塵も感じさせないとても華やかな雰囲気でびっくり。外国人でもすぐに祝福の輪の中に入れてくれますが、イエメンでは14、15歳で結婚する女性が多く(と言うか、親同士が勝手に決めて結婚させられる)、いろいろと問題もあるようです(汗)。

サナアのホテル


サナアでは「Burj Al Salam」というホテルに3連泊(日本語にすれば「平和の塔」とでもなりますでしょうか)。旧市街の中にあり、サナアの伝統建築(写真左がホテルの外観)に宿泊できるのはここだけだったので迷うことなく選びました。建物が古い為、水圧が弱い、水はけが悪い、給湯は電気式タンクで湯を使い過ぎると水になる、冷暖房機器無しといった設備面でのマイナス・ポイントはありましたけど、客室の窓や屋上から見える旧市街の景色は素晴らしく、宿泊客が使えるサロン室なんかもあって、とても良かったです(寝てる時に地震がきたらどうしようという恐怖はありましたが・汗)。


写真は左から部屋の鍵、朝食、フロントです。世界中のいろいろなホテルに宿泊しましたが、こんな中世の職人が作ったみたいな鍵を見たのはこのホテルだけ(笑)。朝食はパン、卵、コーヒー、紅茶、ジュースだけの大変質素なもので、屋上のテラス席で頂きました。このホテルの当時の経営者はイタリア人であったように記憶していますが、そのせいか、客室はどことなくイタリア風でしたね(笑)。

サユーン


サナアから中部に位置するハドラマウト州の州都サユーン(セイユーン)へガイドのアデル君と共に国内線の飛行機で向かいました。ハドラマウト州は旧南イエメンだった地域で、サユーンは古くからキャラバン(隊商)が立ち寄る交易地として繁栄していた街です。街にはこの地方を支配していたスルタンの巨大な宮殿(写真右)が残っており、その富がどれほどのものであったのかを偲ばせます。ハドラマウト地方へやって来てすぐに気付いたのは、男性たちがジャンビーヤを腰に差していないこと。南イエメンはイギリスの植民地時代と共産主義政権下の時代が長かった為、その間に習慣が廃れてしまったのか、もともと南イエメンには北部の三大部族に属さない人が多かったからなのか、その理由はよく分かりませんでした(汗)。とは言え、ハダラマウトの人々も命知らずの勇敢さと冒険心、自らが持つ誇りという点では北部の人々に負けることはなく、711年にジブラルタル海峡をターリクと共に越えて瞬く間にスペインを占領したアラブ・ベルベル連合軍のアラブ人兵士の多くはここハドラマウト地方の出身でした。

タリム


ハドラマウト州のタリムはイエメンで一番宗教色の強い街。預言者ムハンマドの直系子孫が一番多く暮らす街として知られていて、街には300以上のモスクやイスラム教の教育機関、イスラム教に関する古い写本を所蔵する図書館などが軒を連ねています。南イエメンが共産主義政権下であった時代でも、ソ連と違ってそれらの宗教施設が弾圧を受けることがなかったのは幸いでした。建物の建築様式もサナアのものとは全く違っていて、写真右は高さ50メートルを超すミナレットがあることで有名な「アル・ムフダール・モスク」です(但し、ミナレットが建てられたのは1914年という比較的新しい時代)。このミナレットも煉瓦を積み上げてあるだけなので、強い地震があれば一発アウトですね(汗)。


僕たちがイエメンを訪れた時期は、イスラム原理主義の過激派がハドラマウト州で外国人への襲撃を繰り返していたこともあって、タリムのような宗教色の強い街では、外国人(異教徒)とはあまり関わり合いたくないという空気が漂っていたように思います。なので、サナアの超フレンドリーなイエメン人たちとは違って、外国人とは距離を保っておこうとする人たちが多いように感じました(外国人嫌いなのではなく、自分たちの安全確保の為なのでしょう)。

シバーム


遂にやって来ました!砂漠の摩天楼があるシバ―ムです。8世紀には既に高層建築がここに建ち並んで
いたそうですが、現在の建物群は1532年に起こった大洪水で街が壊滅した後に建造されたもの。東西500メートル、南北400メートルという狭い区画の中に5~8階建の500棟もの高層建築(高いものだと高さ30メートル)が密集して建ち並んでいるのは、洪水対策も兼ねているということですね。16世紀と言えば織田信長が生きた時代ですが、砂漠の中に突然現れるこの高層建築群を目にすれば、さすがの信長も度肝を抜かれたのではないかと思います(笑)。


シバ―ムの砂漠の摩天楼は、な、なんと、焼成煉瓦ではなく泥煉瓦(泥を型枠に入れて天日で硬くしただけの煉瓦)を積み上げて造られています。つまり、強い雨が降ると溶けてしまうってことなんですよね(汗)。まあ、砂漠気候なので降雨はほとんどありませんけども、やはり泥煉瓦は強度不足なので定期的なメンテナンスが欠かせません(写真の左から2枚がその作業の様子)。現在のシバ―ムの人口は7千人程度と言われていて、人口減少でメンテナンスが追い付いていない建物も多く(空家だらけ)、既に倒壊してしまっている建物もいくつか見かけました。

ワディ・ダール


日本製の4WD車輛に乗ってサナア近郊の観光へ出かけました。サナアの北西部にはダールという名のワディ(枯れ谷)が広がっており、アラビア語でワディと名の付く土地は大抵の場合、日頃は地表に水分が無くとも雨が降った際にその地下に大量の地下水を蓄えています。そのとおり、ここのワディも土地が肥沃で一年中緑が絶えることがなく、サナア市民の数少ない憩いの場。ワディ・ダールのシンボルは、岩の上に不自然に建つ「ロック・パレス」で、1920年代にこの地方を支配していたイマーム・ヤヒヤが夏の離宮として建設しました。


ロック・パレスはイエメン政府が管理しており、内部の見学が可能でした(カマリア窓を間近で見れます)。写真左は、ガイド君を外に残して内部見学をしていた際に声をかけてきたイエメン人夫婦(イエメンではカップル=夫婦です。未婚のカップルは存在しませんし、夫婦以外の男女が二人で連れ立って出かけることもできません・汗)。身振り手振りで俺たちの写真も撮って欲しいと言うので、撮らせていただきました。女性はニカブ姿なのでその表情は分かりませんが、ご主人とそっと手を繋いだりしていて、幸せさが伝わってきます。イエメンで男女が手を繋いでいる写真なんてまず撮れるものではないのですが、周囲に他のイエメン人が誰もいなかったので、自然とそうなったのでしょう。

サナア近郊の小さな町々


サナアの近郊には中世で時が止まってしまったかのような小さな町が幾つもあり、今回のイエメン訪問で一番気に入ったというのが正直な感想です。真ん中の写真はハバーバという町の貯水池。水と建物のコントラストが素晴らしかったです。しかし、貧困のせいなのか町自体は荒れ果てていて、そこら中で建物が崩壊してしまっているし、通りもゴミだらけだったのは残念。でも、将来、ここを観光地化させれば、町を立ち直させるポテンシャルは十分にあると感じました。


左の写真はトゥーラという町。オスマン帝国の支配にも屈しなかった要塞都市で、ここの建物は煉瓦ではなく、近辺の採石場から切り出された石で造られているのが特徴。石造りの独特の街並みがとても美しいです。右はコーカバンの町。標高2,800メートルに位置する崖の上のコーカバンと崖下のシバ―ムという町がセットになっていて(その標高差は400メートル)、普段はシバ―ムで暮らし、敵が襲来するとコーカバンに上がって敵と戦うという暮らしをしていたそう。

以上、駆け足でイエメンの旅を紹介しましたが、如何だったでしょうか?現在もイエメンでは内戦が続いており、あの超フレンドリーで親切な人々、経済的には貧しくとも心は貧しくない人々が悲惨な戦争に巻き込まれているのだと思うと胸が締め付けられますが、一日も早く内戦が終結し、イエメンに観光客が戻って少しでも多くのイエメン人が貧困から脱することを心から祈りたいと思います。

ドバイ(アラブ首長国連邦)


本拠地がドバイのエミレーツ航空を使ってサナアへ向かったので、帰路、ドバイに立ち寄りました。ドバイの観光は名物のアブラ(写真左)に乗って運河を渡るか、4WDで郊外の砂漠に行って砂丘ドライブを楽しむかくらいしか無く、見どころ満載のイエメンを訪れた後では何もかもがしょぼかったですね(笑)。因みに、エミレーツ航空は往路、嫁さんが日本で預けた荷物をドバイで間違った便に積み込んでロスバゲにし、何の詫びもないまま2日後にようやく荷物をサナアに届けてきました。サナア空港のエミレーツ航空のスタッフは抗議をしても知らぬ存ぜぬの態度で、帰国後、エミレーツ航空の本社にメールを送って補償を求めましたが、さんざんたらい回しにされた挙句、返金されたのはたったの50米ドル。金持ちのくせに、すべてにおいてしょぼいドバイです(笑)。

イエメン編はこれにて終了。引き続き『旅の棚⑥』をお楽しみください。次回はスペイン・アンダルシア地方への旅を紹介します。