【第33回】怒りの葡萄
原題:The Grapes of Wrath
公開年/製作国/本編上映時間:1940年/アメリカ/128分
監督:John Ford(ジョン・フォード)
主な出演者:Henry Fonda(ヘンリー・フォンダ)、Jane Darwell(ジェーン・ダーウェル)、John Carradine(ジョン・キャラダイン)、John Qualen(ジョン・カレン)
【ストーリー】
アメリカ合衆国の多くの市民が大恐慌によって引き起こされた不況で苦しんでいた1930年代前半、ナイフで襲ってきた相手の男を過剰防衛で殺してしまい7年の刑を言い渡されて刑務所で日々を過ごしていたトム・ジョード(ヘンリー・フォンダ)が、4年で仮釈放となって故郷のオクラホマ州サリソーにある自宅へと向かっていた。途中、サリソー郊外で知人の元牧師、ジム・ケイシー(ジョン・キャラダイン)と再会したトムは、既に信仰を捨てていたケイシーと酒を酌み交わし、暫し昔話に花を咲かせたあと彼と共に自宅へ向かったが、小作農をしていた両親の住む家は空家になっていた。二人が家の中に入ってみると、そこにいたのは隣人のミューリー・グレイブス(ジョン・カレン)で、トムは辺りの小作人たちの多くがDust Bowlと呼ばれる砂嵐のせいで農作物の不作が続く土地の権利を所有者から買い漁る銀行や畜産会社によって家を追い出されてしまい、皆が故郷を捨て、仕事を求めてカリフォルニアへ移住しようとしていることを聞かされる。翌日、叔父の家を訪れたトムは、そこへ一家全員で身を寄せていた家族と再会するも、カリフォルニアへ向かう為に家財道具をすべて売り払っておんぼろのトラックを手に入れていたジョード一家は既に出発の準備を整えており、トムとケイシーも彼らと共にカリフォルニアへ向かう決心をしてトラックに乗り込む。オクラホマ州からカリフォルニア州までは、ほぼ一直線のルート66の上をひたすら走るだけであったが、その移動距離は約2千キロ以上もあり、狭い車内に12人もの人間を詰め込んだ車による過酷な旅によって祖父と祖母がその途上で次々と亡くなってしまう。そればかりか、カリフォルニアが目前に迫る中で出会ったアーカンソー州出身の男から「カリフォルニアへ行っても仕事なんか無いし、待っているのは苦難だけだ」という話を聞かされ、一抹の不安を抱えつつ旅を続ける一家。そんな彼らがようやくたどり着いたカリフォルニアで目にしたのは、男が言っていたとおり、職もなく、日々の食事にさえありつけない絶望の中で暮らす州外からやって来た移住労働者たちの姿であった。
【四方山話】
前回と同様、今回もヘンリー・フォンダの出演作品です。本作はアメリカの作家スタインベックの文学作品「怒りの葡萄」を映像化したものですが、前半のジョード一家がオクラホマからカリフォルニアに到着するまでの描写は原作にほぼ忠実なものの、後半部分はかなり変更が加えられていて、ラストに至っては原作とまったく異なっています。にも拘わらず、スタインベック自身は「貧農の不屈の精神が見事に映像化されている」とこの映画を高く評価していたようで、特にヘンリー・フォンダの演技に感銘を受けていたそう。僕なら、自分の作品の結末をあんなふうに変更されたら怒り心頭で許せませんがね(笑)。因みに原題のThe Grapes of Wrathのwrath。聞き慣れない単語ですが、一般的な怒りangerとは違って、誰かを罰したい(宗教的、道徳的な観点から)と思うほどの激しい怒りを意味する言葉。聖書や神話に出てくる時は通常「神の怒り」を表します。スタインベックは「あなたにとって宗教とは何かと問われれば、私には宗教がないと答えなければならない」と自ら語っていたとおり彼は無神論者であったのですが、キリスト教的な隣人愛は大好きであったようで、本作のタイトルも聖書のヨハネの黙示録第14章の記述(神の恵みに反して罪や悪に染まってしまう人間「悪い実、悪い人間」に厳しい裁きが下され、それらが搾り桶に入れられ、踏みつけられて血が滴り落ちる様子)から引用されていますし、ジョード一家がオクラホマから約束の地カリフォルニアへ向かう描写は「出エジプト記」とイメージが重なります。宗教を捨てたはずのケーシーをキリストのような犠牲者、トム・ジョードをその使徒的存在として描いてもいますね。但し、聖書の中ではぶどう園の主人の意に反して反抗ばかりをたくらむ労働者が悪い実、悪い人間であり、それ故に彼らには厳しい神の裁きが為されるのですが、スタインベックの作品では悪い農園主に善良な労働者がストライキで抵抗するも、結局、厳しい裁きを受けることになったのは労働者であったという点で大きく異なっていて、その不条理こそがスタインベックの描きたかったことなのかも知れません。
それでは解説です。本作の冒頭部分、小作人たちが砂嵐による農業被害で苦しんでいる舞台はオクラホマ州サリソーということになっていますが、撮影はオクラホマ州の現地で行われたのではなく、カリフォルニア州ロサンゼルス郊外のラスキー・メーサの丘陵地帯で撮影されました。オクラホマからカリフォルニアまでルート66を伝って移動するシーンに出てくる風景だけは、別動隊に実際にルート上を走らせてロケ撮影しています。ジョード一家が75ドルで買った車は1926年型のHudson Super-Six Sedanをトラックに改造したもの(原作小説でも同じ車種が登場)。あのような貧乏小作人でも車を買えるところが当時のアメリカの凄いところで、赤貧に喘ぎ、娘に身売りをさせなくてはならなかった日本の東北地方の小作農家などと比べれば同じ貧困と言ってもレベルが違います。38分前に「OKLAHOMA CITY」と出てくる看板の向こうに写っている街並みは、オクラホマ・シティーではなくニューメキシコ州のアルバカーキ。52分前のアリゾナ州の検疫所のシーンが撮影されたのはアリゾナ州のラプトン。53分20秒頃に登場の鉄橋は、コロラド川にかかるオールド・トレイルズ橋です。橋を越えればいよいよカリフォルニア州。この橋はヘンリー・フォンダの息子であるピーター・フォンダが主演した映画「イージー・ライダー」の冒頭のシーンでも背景に登場していますね(ピーターが乗るバイクが同じ橋の上を走らなかったのは、既に橋が通行禁止になっており、ガス管を渡す為だけに利用されていたから)。65分頃にジョード一家がようやく到着したカリフォルニア州の一時収容キャンプは、ロサンゼルスのセンチュリー・シティーにあった20世紀フォックスのスタジオでセットを組んで撮影。その後、一家が移動する先の「キーン牧場」は、同じくロサンゼルスの郊外にあった競走馬の放牧場でセットを組みました。この牧場は後に売却され、現在はThousand Oaksという名の住宅街に変貌しています。102分過ぎに一家が到着する生活設備が整った連邦政府運営の「FARMWORKERS’ WHEAT PATCH CAMP」は、移住労働者を支援する為に合衆国政府がカリフォルニア州ベーカーズフィールド近郊に実際に建設したFederal Government Campがモデルとなっていて、シーンの一部は本物のキャンプでロケ撮影されました。因みに、原作の小説ではこの文化的なキャンプは登場せず、一家は最後まで豚小屋同然の酷い生活環境のキャンプを転々とします。
では、お次は出演者の話へ。原作の著者であるスタインベックも感銘を受けたという発言を残しているように、本作でトム・ジョードを演じたヘンリー・フォンダの演技はとても自然で、舞台俳優のようなゲサな感情表現をすることなく過酷な環境で生きる人間たちが徐々に感じていく社会の不正義、不公平に対する怒りを静かな演技によって見事に醸し出していますね。フォンダのトム役への思い入れは映画の撮影前から相当なものであったようで、原作を読んでトム・ジョードをどうしても演じたいと思った彼は、20世紀フォックスの設立者の一人で副社長であったダリル・ザナックにトム役を演じさせて欲しいと懇願。ザナックはそれをいいことにフォンダに7年という20世紀フォックスの専属俳優としての長期契約を提示しましたが、フォンダはその条件を嫌々呑むことまでしてトム役を手にしたそう。フォンダのトム役が熱演であったのは当然の結果だった訳です。フォンダと並ぶ熱演であったのがイタリアの肝っ玉母さん風のトムの母親を演じたジェーン・ダーウェル。ダーウェルが母親役に起用されたのは、前年に公開された「ジェシー・ジェームズ(邦題は「地獄への道」笑)」でフランク・ジェームズ(フォンダ)の母親役を演じた彼女を気に入っていたフォンダの強い要望があったからだとされていて、プライベートでもson、maと呼び合う仲であったという二人の演技の息が合っていたのも納得。端役が多かったですけども、彼女は生涯で170本もの映画に出演しました。逆にイケてないと思ったのがトムの妹で妊婦でもあるローザシャーン役のドリス・ボードンと同じく妹であるルース役の少女、シャーリー・ミルズ。ローザシャーンというのは変わった名前ですがRose of Sharon(植物のムクゲ)が正式な名前。この役を配されたドリス・ボード、実は本作の脚本を担当したナナリー・ジョンソンの恋人だった人物で(本作の撮影後、二人は結婚)、要は縁故採用みたいなもので、そういった流れで役を手にした者は大抵の場合、大した役者ではないですね(笑)。原作の小説では、この妊婦のローザシャーンがラストシーンでの鍵となってくるのですが、その話はまた後で。ルース役のシャーリー・ミルズも日本の劇団ひ〇わりから飛び出してきたみたいな演技でがっかりでした。ジム・ケイシー役もジョン・キャラダインよりもむしろミューリー・グレイブスを演じたジョン・カレンを配する方が良かったのではないかという気がしないでもありません。
と、上から目線で出演者をけなしたところで解説のシメに入りましょう(笑)。ここからはいつもと同じくネタバレです。カリフォルニアに到着したジョード一家のその後ですが、一時収容キャンプでの生活が始まって程なくすると、キャンプへやって来た農作業の斡旋業者と業者の不正を暴く一人の男との間で口論が始まり、業者の手下である警官が介入して発砲。それを止めようとしたトムが警官を殴り倒し、ケイシーが彼の身代わりとなって警察に逮捕されます。同じ頃、ローザシャーンの夫、コニー(エディ・クイラン)が妊娠中の彼女を捨ててキャンプから消え(原作小説では、カリフォルニアへ到着する前に長男のアルとコニーが姿を消します)、ローザシャーンが悲しみに暮れる中、一家はいざこざから距離を置くべくキャンプを離れますが、その途中、農場での仕事を紹介されてそこへ向かいます。一家が働くことになったのは「キーン牧場」という名の農場で、賃金も悪くはなかったのですが、それは農場で働く労働者たちが農場の賃下げや農場に1軒しかない食料品店での食料品の意図的な値上げに抗議してストライキを起こしたことで人手不足となっていたからで、ストライキの問題が解決すれば、賃金は再び下げられるということが分かってきます。ある夜、何かがおかしいことに気付いたトムがキャンプを抜け出して外の様子を窺いに行くと、そこで見つけたのは、川沿いでテントを張ってストライキを指揮する労働者たちで、その一団のリーダーとなっていたのは、警察へ連れていかれたまま一家の前から姿を消していたケイシーでした。再会を喜ぶ二人。ですが、その夜はキーン牧場の経営者が警備員を使ってストライキの指導者たちを一網打尽にしようと企てていた日で、警備員の集団に見つかってしまった彼らは逃げようとしたものの取り囲まれてケイシーは殴り殺され、それを止めようとしたトムも逆に警備員を殺めてしまいます。トムは棍棒で殴られて顔に傷を負いつつもその場から逃亡して追われる身になりますが、顔に傷を負っている男ということしか分からない牧場側は探索にてこずり、その間にジョード一家は他の農場で仕事が見つかったとトムをトラックの荷台に隠してキャンプから脱出、連邦政府の運営するキャンプにたどり着きます。そこは屋内トイレやシャワー設備までが備えられた今までのキャンプとは比べ物にならない文化的な施設で、そこでの生活もキャンプで暮らす労働者たちの自主性に委ねられていました。地元警察は、統制のとれたそんな労働者たちを共産主義者の手先とみなしていて、毎週土曜日にキャンプで開催されるダンス・パーティーで手下に喧嘩沙汰を起こさせ、その介入を口実にキャンプ内に突入して労働者たちのリーダーたちを逮捕しようと目論みますが、その動きに気付いた労働者たちが機転を利かせて阻止します。労働者たちが結束して権力と闘うその光景を目の当たりにしたトムは、それまでに様々なキャンプで人が人として扱われず、尊厳を奪われている姿を目撃してきていたこともあって強く心を動かされ、警備員殺害の犯人を探す警察がキャンプに現れると、家族に迷惑をかけないようにする為にも家族のもとから去ることを決意、労働者の権利のために闘ったケイシーの意思を引き継ぎたいと母親に告げて密かに家族の前から消えます。一方、残された一家もフレズノの綿花農場で20日間の仕事を見つけたことからキャンプを去ることにし、その農場へと向かうラストシーンでトラックの助手席に座るトムの母親が最後に口にするのが以下の有名な台詞です。
Rich fellas come up and they die.
Their kids ain’t no good and they die out,
but we keep a-comin’.
We’re the people that live.
They can’t wipe us out.
They can’t lick us.
And we’ll go on forever, Pa, ‘cause we’re the people.
金持ちどもは現れては消えていく
連中の子孫はろくでなしばかり、それ故に消えていく
でもあたしたちが途切れることはないわ
あたしたちこそが生きる民なんだもの
連中はあたしたちを滅ぼすこともできないし
打ち負かすこともできない
あたしたちは生き続ける、だってあたしたちこそ民なんだもの
この台詞は、忍耐強く生きる庶民への賛辞であると同時に資本主義の強欲さに対する痛烈な告発であり、過酷な自然だけでなく残酷な経済システムもまた、人としての尊厳さえ人から奪うというアメリカ社会における現実、そして、その現実の中に潜む不正義、不公正が生み出した悲惨な状況に対する深い共感と憤りを映画を見終えた観客に呼び起こすものでした。だからこそ、ストーリーの結末を大きく変えられても原作者のスタインベックは納得したのでしょう。なぜなら、彼は「怒りの葡萄」を執筆する前に「この責任(大恐慌によってもたらされた庶民の苦難)を負っている貪欲な奴らに恥というレッテルを貼りたい」と自分の創作ノートに綴っていて、結末は大きく変更されてはいても作品自体は彼のその思いに反してはいなかったから。あと、冒頭でも述べたように原作小説と映画ではそのエンディングが大きく異なっていて、映画版の結末は明るい未来を暗示するハリウッド的なものになっていますが、原作の小説ではこうなっています。人間以下の生活しかできないキャンプを転々としていたジョード一家からトムが姿を消した後、ローザシャーンは赤子を死産。しかし、母親は毅然とした態度を崩さず、家族を励まし続けます。そんなある日、キャンプを洪水が襲い、一家が高台にあった古い納屋に避難すると、そこには飢えて死にそうになっている見知らぬ父子の姿があり、男の命を救うには何をすれば良いのかを悟った母親は、娘のローザシャーンを見つめて彼女と男の二人きりにし、ローザシャーンが男に自分の母乳を飲ませるというのがエンディング。映画版の結末とはまったく別物の強烈なシーンですね(汗)。まあ、当時のアメリカでそんなシーンを映像化するのはちょっと不可能であったであろうということは容易に想像できますが、原作小説の結末のままで映像化していれば、そのシーンはドリス・ボードが演じることになっていた訳で、それが嫌で本作の脚本を担当した恋人のナナリー・ジョンソンが映画版の結末を変えたと考えるのはちょっと想像が飛躍し過ぎでしょうか(笑)。
第43代合衆国大統領ジョージ・ブッシュが若かりし頃、本作を見た際にもらした感想は「これは共産主義の宣伝映画だ!」だったそうですが、本作のプロデューサーで20世紀フォックス社副社長のダリル・ザナックは労働組合嫌いで反共産主義思考の強かった人物。監督のジョン・フォードは後にニクソン大統領を支持し、ベトナム戦争を正当な戦争だと主張したような御仁(ジョン・ウェインの如き強固な反共主義者を可愛がっていたのもジョン・フォード)。そんな人物たちが集って本作を撮影したというのは何とも不思議でなりませんね(笑)。本作は80年以上も前に撮影された古い映画ですが、富める者たちだけがひたすら富み、それ以外の者たちが次々に人間としての尊厳さえ奪われる時代に突入した今の日本国で、この映画を鑑賞することは決して無意味ではないと僕は思います。それでは皆さん、グッバイ、アディオス、チ・べディアーモ!
河内レオンは現在、シルクロードを旅行中につき、この記事は事前の予約投稿によって自動的にブログにUPされております。帰国予定の4月上旬まで、毎週日曜日の『映画の棚』の記事以外、ブログはUPされませんので悪しからずご承知おきくださいませ。