旅の棚⑥

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2009年9月、嫁と二人で関西空港よりフィンランド航空を利用してヘルシンキ乗り継ぎで久し振りにスペインを訪れました(スペインは英語表記の日本語読み。スペイン語では「エスパーニャ」と言います)。当時、フィンランド航空はシベリア上空を飛べたので、ヘルシンキまで10時間とヨーロッパ地域へ最速で到着する航空会社でしたが、現在はロシア・ウクライナ戦争のせいでロシアの領空を飛行できない為、13時間以上かかるようです(因みにフィンランドも英語表記の日本語読み。フィンランド人は自らの国を「スオミ」と呼んでいます)。

マドリード


人口約3百万、スペインの首都でもある大都市。日本ではマドリードと呼んでいますが、スペイン語での発音は「マドゥリッ」ですね。僕が初めてマドリードを訪れたのは1985年のこと。その頃のスペインは第二次世界大戦の前よりスペインで独裁政治を続けていたフランコ将軍が亡くなって10年(通貨のコインなんかはまだまだフランコ将軍の肖像が刻まれたものが流通してました)、ようやく国内での民主化が板につき始めていた一方、スペインの民主化を阻止して独裁政権の時代に戻そうと目論む一部のグアルディア・シビル(治安警備隊)の部隊が会期中の国会に乱入して国会議員全員を人質に立てこもるというような過激な事件も起きていたりしていた時代で(事件発生は1981年)、まだEC(現在のEU)に加盟もできていなかった当時のスペインの首都に漂っていたのは、他の西ヨーロッパ諸国とは異なるどこか垢抜けない土臭さでした。あの頃はスペインを旅するアジア人は僅かでしたし、世界中のどこにでもいる華僑もスペインには少なかったので、通りを歩けばスペイン人から初めてパンダを見るような目で露骨にじろじろと見られるという時代でもあったんですよ(笑)。


マドリードに到着した日は、La Noche en Blanco(白夜)というパリ発祥の芸術祭みたいな祭りがマドリードの中心部で開催されていた為、プエルタ・デル・ソルからアルカラ門あたりの一帯が道路封鎖されて歩行者天国になっており、空港から乗ったタクシーが予約していたホテルの前まで行けませんでした。なので、仕方なく封鎖地点でタクシーを降りてホテルまで1キロほど歩く羽目に。祭りのことなんて全然知らなかったです(汗)。


左端はマドリード中心部のPuerta del Sol(太陽の門)。地元では単にsolと呼ばれることが多いです。ここは中世の時代に街がぐるりと城壁に囲まれていた時代に東端に設けられた城門があった場所で、太陽が昇る東に面しているから「太陽の門」と名付けられたと言われています。写真奥の建物は現在、マドリード州の州政府庁舎として使われていますが、僕が初めてスペインを訪れた頃はいつも入口に茶色の制服を着た警官が立っている警察署だったと記憶しています。因みにこの建物は、もともとは郵便局として建てられ、スペイン内戦後はDGS(治安総局)が本部を置いて反フランコの闘士たちを逮捕しては建物内で拷問を加えていた場所であったことはあまり知られていません。また、この建物の前が、日本の日本橋のように、スペイン全土の道路のゼロ起点となっています。昔のプエルタ・デル・ソルは普通に大量の車が行き交う道路と横断歩道しか無かったんですが、今は車道を廃した歩行者天国の広場に変わり、垢抜けた姿にすっかり変貌してしまいました(笑)。中央の写真はプエルタ・デル・ソルの近くにあるバネスト(スペイン信用銀行)の優美な建物で、僕がマドリードで一番お気に入りの建物。


スペイン人でタペオ(バルでのはしご酒のこと。これが朝まで続くとマルチャ(行軍)という言葉に変わります・笑)が嫌いな人を見たことがないですが、マドリレーニョ(マドリっ子)も勿論タぺオが大好き。彼らに習って、到着日、早速タぺオに出掛けました。写真は左から夜のマヨール広場、マッシュルームの鉄板焼きで有名な「Meson del Champiñón」とそのタパ。右端は「La Casa del Abuelo」のエビのアヒージョです。どの店も老舗&超有名店&観光客だらけですね(笑)。


1999年に嫁さんとマドリードを訪れた際、休館日に当たっていたので鑑賞することができなかったパブロ・ピカソ作の「ゲルニカ」を見に行きました。ゲルニカはスペイン内戦中の1937年にスペイン北部バスク地方のゲルニカという小さな街で起こったドイツのコンドル軍団による無差別爆撃に抗議してピカソがパリのアトリエで描いた巨大壁画(当時のゲルニカの人口は約6~7千人、その内の1~2千人が亡くなったと推定)。壁画は1937年に開催されたパリ万博で展示後、スペインに運び込まれる予定でしたが、壁画の所有者であるスペイン共和国政府がフランコ将軍を中心とする反乱軍に破れた為、スペインに向かうことはなく、世界中で展覧会が開かれつつも長らくのあいだアメリカのニューヨーク近代美術館が所蔵していました。しかし、1975年にフランコ将軍が死去すると、長らくの懸案であったスペインへの返還話が進展。ゲルニカがようやくスペインの土を踏むことになったのは1981年のことです。当初はプラド美術館の別館に展示されていたゲルニカですが、1992年より新設された「ソフィア王妃芸術センター」で展示されていて、ゲルニカ以外にもダリやピカソの絵画を鑑賞できます。

トレド

正直なところ、マドリードはそれほど観光資源に富んだ街ではなく、プラド美術館やレティーロ公園、王宮、旧市街(プエルタ・デル・ソル、マヨール広場、日曜祝日なら蚤の市エル・ラストロ)などを見て回ればもうお終い。ですが、その反面、周辺部にはトレドやアビラ、セゴビア、アランフェス、エル・エスコリアルといったマドリッドから日帰りで訪問可能な魅力的観光地が連なっています。「そう言えば、嫁さんはまだトレドへ行ったことがないな」と思い、この日は急遽、マドリードから南へ約70キロに位置する古都トレドをバスで訪れてみました。


マドリード市内のバスターミナルからバスで走ること1時間でトレドに到着。小高い丘の三方をタホ川が囲むという天然の要塞であるトレドの地には紀元前より人が暮らしていましたが、街の礎を造ったのは、紀元前193年に丘を征服した後、城壁や水道、公衆浴場、劇場、円形闘技場などを築いて植民都市トレトゥムを建設した古代ローマです。その後、ローマはイベリア半島に侵入したゲルマン系の西ゴート族に駆逐され、西ゴート族は6世紀初頭にトレドを首都として西ゴート王国を打ち立てますが、その王国も8世紀にジブラルタル海峡を越えて侵入してきたイスラム王朝に滅ぼされ、11世紀に入ると今度はイスラム教徒に奪われた土地の奪還を進める(いわゆるレコンキスタ)カスティリャ・レオン王国のアルフォンソ6世がトレドを落として入城、遷都を行いました。このように、異なる文化を持つ民族に入れ替わり立ち代わり支配された歴史を持つトレドでは、キリスト教以外を信仰する者の自由や居住権、財産権等が認められた為、キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒の文化の融合が進み、その結果、独自の美術、建築様式が育まれることになりました。


トレドは要塞都市として発展した為、侵入者が容易に中心部へたどり着けないよう、細い路地のような通りが入り組んでいて迷路のようになっていますが、取り敢えず坂道を上へ上へと向かって上がって行けばカテドラルのある中心部に到達できます(行き止まりになっている道もありますけども・笑)。一番迷わないのは、車の通れる幅のある道を上へ上へと向かう方法。細い裏道を迷いながら歩くのも楽しいですが、人気がない路地ではひったくり等が出没することもあるので用心はしてください。


トレドを訪れた日本人の多くが先ず目指すのは、ムデハル様式の塔が美しいサン・トメ教会(写真左端)。でも、お目当てはこの塔ではなく、教会が所蔵するエル・グレコの最高傑作の絵画のひとつ「オルガス伯爵の埋葬(左から2枚目の写真)」です。エル・グレコはその名のとおり、クレタ島出身のギリシャ人の画家で、16世紀の後半に30代でスペインに移住し、その死までトレドで暮らしました。あの時代に劇画調のタッチで絵を描くという唯一無二の才能の持ち主でしたが、スペインではその作品は奇抜だとされて忘れ去られ、再評価されるようになったのは20世紀に入ってからです。右から2枚目の写真は餃子ではなく(笑)トレド名物のマサパン。アーモンドの粉と砂糖を練って焼き固めた素朴なお菓子。トレドは要塞都市という性格上、武具や武器の名産地でもあったので、土産物屋にはそれらのレプリカが並んでいますけど(写真右端)どうやって持って帰るんだろうと思いますね(笑)。

セビージャ


マドリードのアトーチャ駅からスペインの新幹線AVEに乗車してアンダルシア州の州都セビージャへ向かいました。駅構内の旧ホーム部分は植物園に作り変えられてしまっていて、昔の面影が全くありません(汗)。アトーチャ駅はかつて、アンダルシアからの貧しい出稼ぎ労働者が行き交う、日本で言えば昔の上野駅みたいな所だったんですけどね。AVEは上のクラスの座席を利用すると飛行機の機内食のような食事がサーブされ、食事を食べ終えるともうセビージャに到着。アンダルシアへ向かうには夜行列車に揺られてという時代にスペインを旅した者にとっては、隔世の感を禁じ得ませんでした。


セビージャは人口約70万人、アンダルシア地方最大の都市であり同時にスペイン第4の大都市。セビージャも他のスペインの多くの都市同様、古代ローマ時代からの歴史を持つ古い街ですが、この街の名が世に轟くようになったのは、16世紀に入って新大陸(中南米)との交易での独占港としての地位が与えられてからのこと。新大陸から強奪した金銀を満載した船はすべてセビージャの港に到着することとなり、流入する莫大な富で街は大いに繁栄しました。しかし、外国商人から借金を重ねるスペイン王家の放漫財政によって、やがて富は街を素通りするようになり、18世紀にはグアダルキビル川にでき始めた砂州の影響で船の航行が困難になったことで貿易独占港の地位がカディスに移されてしまった為、その繁栄が長く続くことはありませんでした。


写真左端はセビージャで最も有名な建物のひとつであるヒラルダの塔。元々はイスラム教のモスクのミナレットとして建てられたもので、キリスト教徒がセビージャの街を奪回後、てっぺんに巨大なヒラルダ(風見)を取り付けてカテドラルの鐘楼に改造しました。高さはなんと95メートル!塔の内部は螺旋状のスロープが造られてあり、これは王が馬に乗ったまま上がれるようにした為だと言われています。左から2枚目はセビージャの街の中心部を貫くように流れるグアダルキビル川。大航海時代はこの橋の傍にある黄金の塔(Torre del Oro)の周辺が港でしたが(当時の船は全長が20~30メートル。積荷が満載時の喫水も2メートルほどだったので、十分に川をさかのぼって来ることができました)、現在の港は街の南にあり、川に堆積する土砂も定期的に浚渫がが行われているので4万トンまでの船舶が入港可能だそう。セビージャの街中にはアンダルシアの民族衣装(Traje de Flamenca。Traje de Gitanaとも言います)を販売する店が至る所にあり、扇子やマントンなどの小物も充実。勿論、日本で買うよりも格安で購入できます。


今回、セビージャを訪問したのは、スペインでフラメンコのレッスン体験をしてみたいという希望が嫁にあったから。レッスンの予約は嫁が日本から入れていたので、僕は案内役だけ務めさせていただきました。フラメンコについてはここで語り始めると話が長くなりますので触れませんが(笑)、コンパスと呼ばれる12拍子という独特のリズムは確かに世界では他に類を見ない唯一無二なもので、多くの人々を魅了するのも頷けます(曲種によって12拍子の中のアクセントの強弱の位置が変わるのはちょっと難解ですが・汗)。日本人はフラメンコ=スペインというイメージを持ちがちですけども、スペイン現地ではフラメンコ=ヒターノ(ジプシー)の芸能。スペイン人にとってヒターノは「自分たちとはすべてにおいて価値観が違う特異な人々」であり、差別の対象でもあることはあまり日本では知られていません。写真左端はフラメンコ・スクールの校長先生。その隣は嫁のレッスンを担当したスペイン国立バレエ団出身の先生(愛称はネグラ(色黒女)酷いとは思いますが皆からそう呼ばれていました・汗 )。その隣りはスクールの傍でバルを営む陽気なおじさんで、ここのバルがスクール関係者のたまり場となっていて楽しい店でした。


スペインの食事も紹介しておきましょう。スペイン料理は郷土色豊かで、基本的には日本人の口にも合いますし、どこで食べても美味しくいただけます。ですが、スペインの通貨がペセタからユーロに変わって以来、スペインの物価は上がる一方。例えば、写真左端、カジュアルなレストランでサラダとパエリャを1皿ずつ、これにビールとソフトドリンクを1本ずつ頼んで25ユーロ(当時は1ユーロ約130円)。きちっとしたレストランで食事すれば、もう日本より高いです。前菜、メイン、デザート、ドリンク込みのメヌー・デル・ディーア(セットメニュー)を500ペセタ(約600円)で食べることができていた時代のスペインを知る身には何もかもが馬鹿高に感じてしまいます(涙)。写真右はパルメーラ・デ・チョコラーテ。その名のとおり、椰子の葉の形を模したパイ生地の上にたっぷりとチョコレートがかかっている僕の好物のお菓子です。

カディス


レンタカーでセビージャからカディスへ。日本から予約していた車は一番安い料金の小型車でしたが、BMWに無料でグレードアップしてくれていました(最新の車には乗ったことが無かったので、エンジンのかけ方からして分かりませんでしたが・笑)。カディスは紀元前12世紀頃にフェニキア人(現在の中東レバノン辺りに本拠地のあった民族。アルファベットの発明者としても有名ですね)が造った街「ガディル」がその起源であるとされていて、今でも人が暮らし続けている街としては世界でも最古の歴史を持つ街のひとつです。18世紀に入って新大陸との交易の独占港の地位がセビージャからカディスに移されると、セビージャ同様、街は大いに繁栄しましたが、その後のスペイン帝国の没落と共にカディスの名は歴史の舞台から消えてしまいました。カディスはコロンブスが新大陸発見の航海に出た港であると紹介されることが多いですけども、コロンブスが新大陸発見の際に出港した港は、現在のウエルバ県のパロス・デ・ラ・フロンテーラにあった港。カディス港を使ったのは、新大陸発見後の2回目の航海の時なんですよね(笑)。カディスの人々はgaditano(a)と呼ばれますが、僕の中でのgaditanosのイメージは「①陽気でとても親しみやすいsimpatico(a)、②とにかくよく喋る、下手すれば半日でも話し続けている(笑)、③意外とアンダルシア訛り(カディス訛り?)が強い」です。


カディスの街で建物の屋上を見ながら歩く人はいないでしょうから旅行者で気付く人は先ずいませんが、カディスの旧市街の建物の屋上にはかなりの確立で見張り用の塔が建っていて、他の街では見られない光景。実はこれらの塔、カディスが新大陸との交易で繁栄していた時代、港に入ってくる船が何をどれくらい運んできたのかを誰よりも早く知りたい商人たちが船を監視する為に競って造ったもの。船の積荷の情報をいち早く手に入れることが自らにとっての有利な取引へと導く第一歩だった訳です。最新情報を先に手にした者が優位に立つというのは現在のビジネスでも同じですね。

へレス・デ・ラ・フロンテーラ


カディスの散策を終えてへレス・デ・ラ・フロンテーラへ向かいました。このヘンテコな名前の街、大多数の日本人にとっては聞いたこともない地名でしょうが、フラメンコ好きの方やお酒好きの方にとっては聞き馴染みのあるものではないかと思います。なぜなら、このへレス・デ・ラ・フロンテーラ(長ったらしいので、現地でも普通はへレスと略して呼ばれていますね・笑)という街は、シェリー酒の名産地であり、フラメンコの聖地でもあるから(近代のフラメンコの礎を築いたアーティストの多くがへレス出身で、フラメンコの華と言われる曲種「ブレリーア」の発祥の地もへレス)。街の通りには「ボデーガ(Bodega)」と呼ばれるシェリー酒の醸造所が建ち並んでいます。Jerez de la Fronteraのdeは、スペイン語で「~の」という意味で、laは英語のtheにあたる定冠詞、fronteraは「国境」の意味。つまり、日本語に置き換えれば「国境のへレス」です。アンダルシア地方の南部にこの○○・デ・ラ・フロンテーラという地名が多く見受けられるのは、レコンキスタの時代、その地がイスラム教勢力とキリスト教勢力のまさしく国境に位置していたことの名残なのです。


ボデーガの多くが事前に予約しておかないと見学できないので、予約不要の「ゴンサーレス・ビアス」のボデーガを訪れて有料ツアーに参加しました。シェリー酒はスペイン語ではその産地名から「へレス」と呼ばれていて、白ワインにアルコールを添加してアルコール度数を高めたお酒です(15~22度)。マンサニージャと呼ばれているお酒もシェリー酒ですが、へレスの隣町のサン・ルーカルで醸造されたものだけマンサニージャの名を使います。シェリー酒の一番の特徴は、樽で熟成させる際に酵母が液面に膜を作って独特の香りを生み出すこと。ボデーガ内にはその樽が並んでいて、ピカソなど有名人が樽ごと買ったものもありました(日本の皇族のものも見かけました)。見学の最後にはお約束の試飲もあります(その後、車を運転しないといけなかったので飲めませんでしたが・涙)。


スペインで観光客がフラメンコを見たい場合、タブラオ(フラメンコを有料のショーとして見せる店)へ行ってドリンクや食事を取りながら鑑賞するというのが一般的ですが、へレスには「ペーニャ(Peña Flamenca)」と呼ばれる地元のフラメンコ愛好家が集って歌い踊る為に設けられた施設が幾つもあり、観光客も見学可能ですので、ペーニャを訪れて庶民の間に息付いているショー化されていないフラメンコを目にすることもできます。写真の左半分はへレスで一番有名なペーニャ「Peña la Bulería」。右半分はタブラオでのショーです。フラメンコの成立過程には謎が多く、なぜにフラメンコと呼ばれるようになったのかの起源さえ良く分かっていませんが、現在、スペインで踊られているフラメンコの様式が完成したのはそれほど昔のことではなく、19世紀後半だとされています。因みに、嫁は京都を拠点に活躍されている市山奈緒美先生のレッスンを日本でずっと受けていて、コンパスを頭ではなく、まるで人が呼吸を意識せずともしているように自然に、しかも正確に刻むことができる日本人を僕は市山先生以外には目にしたことがありません。ギターと歌と先生の踊りがかみ合った時のパフォーマンスはいつ見ても感動ものですので、機会があれば是非とも市山先生の踊りを見に行ってみてください。先生の活動は下記のインスタグラムでもご覧いただけます。

https://www.instagram.com/naomiichiyama/

アルコス・デ・ラ・フロンテーラ


この街の名前も日本人には馴染みのないものだろうと思いますが(←またフロンテーラかよ・笑)、カディス県内に点在するサアラ・デ・ラ・シエラ (Zahara de la Sierra)やベヘール・デ・ラ・フロンテーラ (Vejer de la Frontera)といった「白い村(白壁の民家が連なる美しい村々)」を観光する為のゲートウェイになる街としてスペイン国内では良く知られている街です。この地域の戦略上の要衝である崖の上に建つアルコスは戦乱の続くレコンキスタの時代には重要視されていたものの、レコンキスタとスペイン統一が完遂された後は発展から取り残され、近世に入った時点では貧困にあえぐ街になってしまっていました。しかし、観光に活路を見出すべく1966年にこの街にパラドールが建設されると、それが起爆剤となって、その目論見どおりカディス県内屈指の有名観光地に成長、現在に至っています。パラドールというのは1928年にアビラで最初に開業して以来、各地で観光業を開拓、牽引してきたスペイン国営の宿泊施設(つまりはホテル)のこと。現在、約100軒のパラドールが営業中です。


今回、アルコスを訪れたのは、ここのパラドールに宿泊してみたかったからなんですが、丘の頂上にあるパラドールへ向かう街の中の道を進んで行くとどんどん道幅が狭くなっていきます。本当にこの道でいいのかと思い、通りを歩く人に尋ねてみましたが「このまま進め」という返事。すると、最後に出てきたのが細い道幅のアーチです(写真左端)。「おいおい、こんなところ、この車で通れるのか?だから小型車が良かったのに」と大型車に勝手にグレードアップしたレンタカー会社を恨みましたが、なんとかぎりぎり通過できました(嬉)。


パラドールは歴史的な価値のある修道院や城を改装して営業している箇所も多いですが、アルコスのパラドールは前述のとおり、観光振興を目的に1966年に建てられた新しい時代のもの。しかしながら、外観や内装のデザインは、周囲の旧市街に溶け込むよう配慮されたものになっています。朝食のバフェも豪華でした。翌朝、セビージャまで車で飛ばし、再びAVEに乗車、マドリードへ戻ってアンダルシアへの旅は終了。平日だったのでセビージャ市内で渋滞にひっかかってしまい、駅への到着が予約していた列車の出発時間ギリギリになったのは焦りました(笑)。

へルシンキ(フィンランド)


フィンランド航空を利用したので帰路もヘルシンキ経由でしたが、僕は仕事で何度か、嫁さんも既にヘルシンキを訪れたことがあったので、今回は空港での乗り継ぎだけでヘルシンキとおさらばしました。因みにムーミンの作者トーベ・ヤンソンはヘルシンキ生まれですが、スウェーデン人です(正確にはスウェーデン系フィンランド人。現在でもフィンランドの人口の約5%はスウェーデン系なんですよ)。